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然らば平八郎は如何様に此理を悟得して居るかといふに、彼は最も此
生死観に重きを置いたと見え、反覆叮嚀に之を論ずる事、幾回なるかを
うち
知らぬ。茲には其中の最も彼の悟境を会得し易いものから拾つて見やう。
けいぜん
彼は大程子の説を引いて曰ふ「死生存亡従来する所を知り、胸中瑩然疑
た のみ
無きは、止だ此理耳、死の事は即ち生、是也、更に別理無しと、又曰く
「語黙は、猶ほ昼夜の如く、昼夜は、猶ほ生死の如く、生死は、猶ほ古
今の如しと、此は皆、心を尽し、性を尽し、而して死を理会する所以也、
うち
吾嘗て謂ふ、未だ出さゞる息、内に在るは、即ち生也、既に吹く息、外
に出づるは、即ち死也、身に就いて之を視れば、生死何ぞ知り難きこと
さとり も
か、之有らん。此悟、本と程子の教誨を承領し来りて以て得し者也」と、
即ち平八郎は、自ら太虚と一なるものだから、死するといふも、此気息
が方寸の虚を出でて、太虚に入る迄の事、生き考へれば、只今斯うやつ
て坐つて居る間にも、一生一死がある。即ち吐く息は死で、吸ふ息は生
だ、といふ様に考へたものだ。
彼は又、揚亀山の説を引いて曰ふ、「天下を通じて一気のみ、合して
生き、尽きて死す、凡そ心知血気有るの類は、物として然らざるなし、
あらざ あう
合ふの来るに非るを知り、尽るの往に非るを知らば、其生くるや浮、
えつせき
其死するや氷釈、昼夜の常の如く、悦戚するに足る者無しと、先生の此
しふさん
悟は全く正蒙太虚一気聚散の説より来る(中略)故に其終身道を論じ、
じやうそく このひと
畏避因循の態無し、程門の上足高弟、斯人に非ずして誰ぞや」と、生死
は唯是れ一気の聚散で、合へば生といひ、尽きれば死といふが、合ふと
て、其気が別な世界から来るぢやなし、尽きたとて其気が又別な世界に
うち こつち
往くぢやない、等しく此太虚の中に居つて、右往左往する迄の事、此方
あつち ぬ
の垣根からつツと彼方に脱け、彼方の垣根からつツと此方に脱ける様な
ほ
ものといふ位な考で、前説と略ぼ帰を同うして居る。
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瑩然
(えいぜん)
きらきらと輝
いているさま
語黙
語ることと、
黙っていること
理会
物事の道理を
会得すること
教誨
教えさとすこと
『洗心洞箚記』
その267
浮
水上の泡
悦戚
悦と、悲しみ
聚散
集まったり
散ったりす
ること
上足
弟子の中で
すぐれた者
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