−大阪の作家と大塩の乱1−」 曾根崎新地のひろ
『大塩の乱関係資料を読む会 第37号』2000.6.1より転載
明治前半には、大塩の乱をテーマにした出版物がいくつかでています。
しかし、残念なことに、この時期のものは、記録に乏しく、不明なことも多いのです。
『今古民権開宗 大塩平八郎言行録』(井上仙次郎編 1879)、『天満水滸伝 』(栄泉社 1882)、『天保山浪花大塩』(大西庄之助 1882)、『大塩平八郎伝』(石原干城 1885)、『青天霹靂史』(島本仲道 1887)など。このうちいくつかは、中瀬寿一氏や北崎豊二氏が自由民権運動との関りで取り上げられています。
大阪の新聞のはじまりには必ず出てくる宇田川文海 (1848−1930)も、大塩の乱をテーマに、いくつかの読物を書いています。
江戸で生まれ、大阪・住吉で生涯を終えた文海は、明治の新聞界・文壇では大きな存在で、明治十、二十年代の流行作家でした。
淀藩の稲葉家の菩提寺であったことが災いしたのか、文久3年、14歳のとき、修行先の養源寺住職が浪士に襲撃されるという事件に巻き込まれて、文海は顔面に重傷を負い、そのことが終生心の傷としても残ったのではないかと思われます。
次兄の茂中貞次が本木昌造のもとで働いていたことから、一時は筆耕を業とし、その後の文海の活動に結びつくものがあったようです。兄の手伝いという形で、新聞に関わるようになりました。
『朝日新聞』に連載していた「蜃気楼」では、井上仙次郎の『大塩平八郎言行録』を題材に、講談を語らせる場面があります。文海の作品は、劇化に結びつくものも多かったということです。というより、劇化を前提に小説を書いていたと言われています。そのため、文海の文体の特徴は、劇化を考慮して、会話文が多いことです。(『上野理一伝』朝日新聞社 1959 p247〜248)
ただ、 新聞小説など無記名のことも多かったので、著作目録も完全なものが無く、文海の業績は、必ずしも正確に伝えられていないのではないかと思われます。
文海のことを調べることになったきっかけは、菊池真一氏の「大阪朝日新聞に見る明治期講談」(『甲南女子大学研究紀要 第35号』甲南女子大学 1999.3 )で、ここに無署名の「蜃気楼」が紹介されていました。この中で、『大塩平八郎言行録』を題材に講談が演じられています。女子参政権をテーマにした作品で、国会開設を前に、自由民権運動が盛んになっていた時代です。
『おおさか文芸書画展 −近世から近代へ−』(関西大学図書館 1994)の「明治大阪文芸年表」によれば、連載は、明治19年8月28日〜12月9日(『朝日新聞連載小説の120年』朝日新聞社 2000 やマイクロフィルムでもこれは確認できます。)。駸々堂から『寓意小説 蜃気楼』として出版され、朝日座でも上演されています。翌年には、『社会進歩 蜃気楼』として再版されているようです。ただ、出版については、『心斎橋北詰 −駸々堂の百年−』(駒敏郎著 駸々堂出版 1997)には記載されていないようでした。
これより前、朝日新聞に明治15年11月1日から翌16年4月5日まで『大潮異聞 三津廼白波(しほのはな みつのしらなみ)』を連載、5月に春陽堂から二冊本で出版しています。これも、春陽堂の社史にあたる『春陽堂物語』(山崎安雄著 春陽堂書店 1969)の「春陽堂書店刊行図書目録」には記載されていませんが、震災・戦災などで、資料もあまり残っていないといことで、原本の所在の確認などむずかしそうです。前年明治14年に、文海は朝日新聞に入社しています。文海の連載読み物が新聞の売り物でした。
実はこの連載に先立って、『浪華異聞 大潮余談(しおのなごり)』というのが京都時代の駸々堂から出版されています。当時売れっ子作家だった文海は、『絵入人情 美也子新誌』の創刊に力を貸し、明治15年4月創刊号の3本の読物のうち2本を書いています。絵は山崎年信・武部芳峰。そのひとつが半痴居士の名で出した「浪華異聞 大潮余談」です。江戸で病死した西村履三郎の遺児たちが主人公の人情ものでした。このころ文海は、朝日新聞上で、『北蔵奇談 櫓乃橘』、『雁信壺の碑』、『勤王佐幕 巷説二葉松』などの実録ものを多く手掛けています。文海の代表作とされる『巷説二葉松』も含め、連載の後は駸々堂から出版、という形が多く見られたということです。
『美也子新誌』の創刊号は全部で8枚のもので、月2回発行(のち3回のときも)。明治16年6月の30号まで続いたようですが、この雑誌については出版史にも記録されることはあまりないようで、保存されているところも少ないようです。駸々堂資料室に何点か保存されているようですが、先頃の倒産で、創刊号を見る機会を失っています。(この駸々堂は、のち大阪に移り、講談速記本、旅行案内や参考書など、いろいろな分野の出版活動をしてきました。ここで本を買われた方も多いことと思います。)
『美也子新誌』については、四月一日付と六日付の二回にわたって次のような広告を「朝日新聞」に出しています。 広告文は、文海の序文から採ったもので、
京都寺町通御池下ル
駸々堂
しかし、森田氏の解説 (p67〜74)については、いくつか疑問があります。
以下に、私の推察を書きます。間違っているかもしれませんが、これからの調査の手掛かりになればと思います。 森田氏の解説とその中に紹介されている文海の書簡、上に書いた文海の活動から推察すると、この影印本は、文海から譲り受けた『美也子新誌』に掲載の「浪華異聞 大潮余談」を、自家の罫紙に書き写したものではないでしょうか。「人情話の続物」というものにぴったりのテーマです。この時期、文海は、御家騒動などに題材をとった読物をたくさん書いています。実録物の分野で、かなりのフィクションが混じっているものです。
佐殿家(西村履三郎係累)の名入りの罫紙に書かれている、『美也子新誌』を所望したという書簡がはさまれている、佐殿家本では、第五回以降ルビを省略している、というようなことから、佐殿家の者が写したという可能性が高いように思えます。筆跡が文海のものかどうか、確認できるのでしょうか。『おおさか文芸書画展』に短冊がでていますが、なんとも判断しがたいところです。
「明治十五年三月」という最後の日付から見ると、ほぼ全部書きあげてから『美也子新誌』に連載したのでしょうか。回は連載のものと同じで、文章も同じです。第1回、最終回など、全部は確認できませんでしたが、国会図書館に所蔵する『美也子新誌』を見ると、予想通り同じものでした。
左殿家が写すにあたって、「在りし吾家乃面影」と冠したのは、自家の歴史を物語にしたもの、という意味あいがあったのだと思われます。物語に昔の吾家の面影を偲んだということでしょうか。
当時の小新聞の「続きもの」記者兼作家は、原稿のルビも自分で振ったということが、『新聞小説史 明治篇』(高木健夫著 国書刊行会 1974)にでています。文海も例外ではなかったと推察します。写す途中で、もともとあったルビは省略することにしたのではないでしょうか。
また、当時の新聞読みものは、資料調査をする人と、書く人は別だったようですから(『上野理一伝』朝日新聞社 1959 p249)、文海と西村家は直接面識が無かった可能性もあります。森田氏の解説に出てくる『美也子新誌』を送る手紙の宛て名「清次郎」が、間にたって聞取りをした人だったのかもしれません。面識があったなら、直接頼むことを考えたでしょう。
一部しかなく自分も大事にしていたが、作品のモデルになった家からのたっての願いなので、拝呈することにした、いうようによめます。この「清次郎」は「坂部清二郎」かもしれません。文海とともに「魁」から朝日新聞に入社した探訪記者です(『上野理一伝』)。
つまり、左殿家には『美也子新誌』がなかった、あるいは無くした、あるいは、最近になって自分の家がモデルになった小説の存在を知って、読んでみたいと思って、かつて話を提供した相手「清次郎」に仲介を頼んで『美也子新誌』を入手した、そして、自家の罫紙に書き写した、という経過が考えられます。秘蔵してほしい、という文海の書簡の通りには佐殿家には残されず、写本だけが秘蔵されて、森田氏に紹介されたということでしょうか。
文海の作品を最も多く書き留めているのは、『近代日本文学叢書 第31巻』(昭和女子大学近代文学研究室編 昭和女子大学光葉会 1970 口絵に文海の書簡もあり)の「宇田川文海」 で、「著作年表」がついています。文海には養女二人がありますが、次女の年齢から推察すると、長女のこどもが書簡にでてくる「孫」ではないかと思います。(後で書きますように、手紙の書かれた時期は明治42年ではないかと思います。)このときの文海の年齢は60を越えています。
つまり、明治の終わりころ、文海は、所望されて、手紙を添えて『美也子新誌』を「清次郎」に送り、その後佐殿家に渡されたという風に思います、そして、左殿家で写されて今日に至ったのではないかと。
まとめると、『在りし吾家乃面影』(左殿家写本)にはさまれていた書簡から、次のような可能性と課題を考えています。
(2)聞取りの時期としては『大塩平八郎言行録』などがでた明治12年以降がではないか。話題になった本に関連する題材として、取材したのかもしれない。
(3)書簡と写本の筆跡は同じか。写本はだれが書いたか。文海が左殿家の用箋に原稿を書く必然性はあまり考えられない。原稿そのものであれば、ルビがないのはおかしい(『美也子新誌』掲載のものはルビが付いている)。
(4)売れっ子で多忙であった文海が、左殿家のために、自分の原稿を書き写しすということも考えにくい。
(5)ルビの途中からの欠如、用箋、などから、左殿家の者が書き写した可能性が高い。
(6)『美也子新誌』に「浪華異聞 大潮余談」が掲載されていたことを、出版当初左殿家で知らなかったのではないか。知っていたら、その時点で『美也子新誌』を求めて、保存した可能性が高い。取材者からも提供されていなかったのではないか。
(7)従って、明治末に、左殿家の者がたまたま『美也子新誌』の存在を知って、面識のない文海には直接頼みにくいので、取材を受けた「清次郎」を介して「懇望」した。「清次郎」は、その意を汲んで、文海に書簡を送り、文海はその返信とともに『美也子新誌』を贈呈した。「清次郎」は、文海の意向を伝えるために、その返信も一緒に左殿家に渡した。それが写本の間に挟まれて残っていた。左殿貫は明治37年に亡くなっているから、父または祖父の思い出として是非とも欲しいという頼みであったかもしれない。「在りし吾家乃面影」と冠したのも、そういう思いがあったのではないか。
(8)写した時期は、『美也子新誌』を入手してからではないか。書簡がはさまれていたのは、それを物語るものではないか。「左殿家蔵」の用箋はいつごろ作られたのか。
(9)文海の書簡の内容から、これが書かれたのは、明治42年ではないか。この年、中劇場で4月15日から中村雁次郎が「二葉松」六幕を上演している(『近代歌舞伎年表 第5巻』八木書店 1990)。『近代歌舞伎年表』で見る限り、「中座」で上演されたのは、この年だけである。明治・大正時代に30回ほど「二葉松」は大阪で上演されているが、(明治26年に角座上演の記録がある)、大芝居にかけられたことに、若き日のことを思い、感慨深いものがあったことが書簡から窺える。
この他、文海の著作をまとめたものでもある『喜寿記念』(宇田川文海翁喜寿記念記念会 1925) があります。(これには関一市長の祝辞も掲載されています。)残念なことに業績を網羅的にまとめていませんが、交友関係の広さを窺わせるものです。
文海を追悼したものとして、岡田翠雨「全盛期の宇田川翁 −起稿の小説悉の大当り−」、野崎左文「噫宇田川文海翁」(『上方趣味』昭和5年7月、11月)などがあります。晩年は史実ものに力を入れたということです。
大阪の近代に、数奇な生涯を送った方が、ここにもいました。
そして、大塩の乱にも興味を持ったときがあったということに、感慨深いものがあります。