Я[大塩の乱 資料館]Я
2018.1.11

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「大塩の乱関係論文集」目次


『今古実録大塩平八郎伝記』

その1

栄泉社 1886

◇禁転載◇

 ○発端

管理人註
  

ときに                        ひのもと 于時天保八丁酉年二月、浪花市中に義兵を起して、其名を日本に轟かせし大 塩平八郎が家系を委しく尋ぬるに、其昔天文の頃、駿遠参に威を震ひし今川                                  おと 治部大輔義元の末葉にして、義元尾州鳴海表桶狭間に織田信長が為に命を殞 せしより、其家次第に衰へ、嫡子氏真愚将にして今川家退転に及ぶ、此折、 妾腹の男子いまだ幼弱なるを懐ろにいだきて、民間に隠るゝ事数年、平八郎 が父に至り、漸々大坂町奉行組の与力となる、                     ゆたか 父を平次兵衛と言ひ、正義廉直の士なり、家豊に夫婦睦しく、何一ツ不足な                           つく/゛\         む かりしも、夫婦の間に子なきを歎き居たりしが、平次兵衛熟々思ふやう、往 かし                       ためし 昔より、子なき者、神に祈り、仏に願ふて子を儲けし例少なからず、是一心                  さ        こめ の誠より、神仏の納受ある所なり、然あらば我も信を籠て一子を儲けんこと                      もと を願はゞやと、妻に此事を語りしに、妻も此儀固より願はしく、又子なきは 去るといふ古語も有り、御先祖へ対しても不孝なり、然らば是より夫婦一心 に祈りて一子を儲けなん、然し、何れの神仏を祈る御心なるやと夫に尋ねけ            つら/\ れば、然ればなり、我々熟々思ひ廻らすに、屹度心付し事あり、京都阿弥陀                    かたじけ ケ峯なる豊国大明神と崇め祭る所の御神は忝なくも豊臣秀吉公なり、公は元                               しば\/ 尾州愛知郡中村の産にて、賎き下民の子たりしが、織田家に仕へて屡々功あ      しだい り、夫より漸次に出世し、一方の大将となり、既に中国責の惣大将として、          きは 備中の国高松水責の際、信長公には明智光秀の為に落命ありしが、秀                          とふら        たちまち 吉中国において此事を聞、直様取て返し、城州山崎にて弔ひ合戦し、忽地明            せめつぶ 智を亡し、夫より柴田を責潰し、終に天下を掌握なし給ふのみならず、遠き 異国までも兵を出し、日本の威を示されし程の凡人ならぬ秀吉公を祭りし所           かけ なれば、彼神へ祈誓を懸、一心に一子を授からん事を祈らばやと、是より夫 婦信を籠、阿弥陀ケ峯なる御神をぞ祈りけるに、神も夫婦が丹精を納受まし                        ひとかた /\けん、幾程もなく妻懐妊しければ、夫婦の歓び一方ならず、大切に身を いと                         うみ 愛ひ、出産を相待けるに、月満て易々と玉の様なる男子を産にける、           けだかく ぢゆうどう 此子産れだちより容貌魁偉、重瞳なりしかば、父は大いに歓び、是ぞ我家を 興すべき者にして、全く神の授け玉ひし者ならんか、何にせよ名を付遣はさ                    なら          おんことば んと思案しけるに、夫武臣にして忠勇世に双ぶ者なきは東照神君の御辞にも、         のた 我為の八幡なりと宣まひしは、彼の本多平八郎忠勝侯なり、然れば我子も成           あやかる 長の後は右の忠勝侯に類似やうにと、其名を平八郎と名付、父母の寵愛一方             たなぞこ    いつく ならず、成長の後を楽みに掌の玉と愛しみ育てけり、                        ばん 此子、三四歳の頃よりして其智衆に秀で、一を聞て万を知るの才ありしゆゑ、                           まつ 夫婦は殊なふ歓び、無難に育てん事のみ豊国の御神に祈り奉りけるが、早八           たいじん 九歳の頃になりては、大人も及ばざる程にて、殊に学問を好み、和漢の書籍 まなこ に眼を晒し、又暇ある時ハ、武術を何くれとなく師を求めて学ばしむるに、                                  わざ 其奥妙を極めざる物なく、故に近隣の者、平八郎が未だ幼稚にして、其何業                            いで に限らず熟達するの奇才を感じ、成長の後は如何なる人と成出んと、人々称 賛しあへりと、 ものかはり 物換星移りて、平八郎十四五歳になりける頃、学業武術とも追々に進むに従 ひ、京大坂にはさして師とし頼むべき博学の聞えある大儒もなかりしかば、 然らば東都なる天下の儒官林大学頭殿こそ博学の聞えあれば、何卒かの林家 の門に入、勤学し、又暇ある時は、将軍家の御膝元には名ある武術の達人も みち/\                 ひとしお 充満たれば、是に便りて学び究めんには、一入其業に達する事もあらんかと 思ひけるにぞ、平八郎、或日、父へ此儀を願ひけるに、父も常々此事の思ひ          絶ざる折なれば、其は幸ひの事にこそ、我思ふ処も同じ、切角の所望ゆゑ許  やら し遣んと、早速に其意に任せしかば、平八郎歓び勇み、いそぎ出立の用意を こそはなしにける、父の親族にて江戸表に林家へ親く出入する者ありければ、       つ て                      もたら 是ぞ幸ひの伝手なりとて、彼の親族の許へ一書を認め、平八郎に齎せ、篤く             やが 教諭して一僕を附従はせ、頓て吾妻の空へと旅立をぞなしにける


『天満水滸伝』
その2
 


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