Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.2.10訂正
2002.1.17

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『天 満 水 滸 伝』

その2

石原干城(出版)兎屋誠(発兌) 1885

◇禁転載◇

適宜、読点を入れ、改行しています。


 ○ 発 端

于時(ときに)天保八丁酉年二月、浪花市中に義兵を起して、其名を日本(ひのもと)に轟かせし、大塩平八郎が家系を委しく尋ぬるに、其昔天正の頃、駿遠参に威を震ひし今川治部大輔義元の末葉にして、義元尾州鳴海表桶狭間に織田信長が為に命を殞(おと)せしより其家次第に衰へ、嫡子氏実愚将にして今川家退転に及ぶ、

此折、妾腹の男子いまだ幼弱なるを懐ろにいだきて、民間に隠るゝこと数年、平八郎が父に至り、漸々大坂町奉行組の与力となる、父を平次兵衛と言ひ正義廉直の士なり、

家豊に夫婦睦しく、何一ツ不足なかりしも、夫婦の間に子なきを歎き居たりしが、平次兵衛熟々(つく\゛/)思ふやう、往昔(むかし)より、子なき者、神に祈り、仏に願ふて子を儲けし例少なからず、是一心の誠より、神仏の納受ある所なり、然(さ)あらば我も信を籠(こめ)て一子を儲けんことを願はゞやと、妻に此事を語りしに、妻も此儀固(もと)より願はしく、又子なきは去るといふ古語も有り、御先祖へ対しても不孝なり、然らば是より夫婦一心に祈りて一子を儲けなん、然し、何れの神仏を祈る御心なるやと夫に尋ねければ、然ればなり、我々熟々(つら\/)思ひ廻らすに屹度(きつと)心付し事あり、

京都阿弥陀ケ峯なる豊国大明神と崇め祭る所の御神は忝(かたじけ)なくも豊臣秀吉公なり、公は元尾州愛知郡中村の産にて賎き下民の子なりしが、織田家に仕へて屡々(しば\/)功あり、夫より漸次(しだい)に出世し、一方の大将となり、既に中国責の惣大将として、備中の国高松水責の際(きは)、信長公には明智光秀の為に落命ありしが、秀吉中国において此事を聞、直様取て返し城州山崎にて吊(とむらひ)合戦し忽地(たちまち)明智を亡し、夫より柴田を責潰(つぶ)し終に天下を掌握なし玉ふのみならず、遠き異国まても兵を出し、日本の威を示されし程の凡人ならぬ秀吉公を祭りし所なれば、彼神へ祈誓(きせい)を懸(かけ)、一心に一子を授からん事を祈らばやと、是より夫婦信を籠(こめ)阿弥陀ケ峯なる御神へぞ祈りけるに、神も夫婦が丹精を納受まし\/けん、幾ほどもなく妻懐妊しけれバ、夫婦の歓び一方ならず、大切に身を凌(いと)ひ、出産を相待けるに、月満て易々と玉の様なる男子を産(うみ)にける、

此子産れだちより容貌魁偉(けだかく)重瞳(ぢゆうとう)なりしかバ父は大いに歓び、是ぞ我家を興すべき者にして、全く神の授け玉ひし者ならんか、何にせよ名を付遣ハさんと思案しけるに夫武臣にして忠勇世に双ぶ者なきは東照神君の御辞(ことば)にも我為の八幡なりと宣(のた)まひしハ、彼の本多平八郎忠勝侯なり、然(さ)れば我子も生長の後ハ右の忠勝侯に仮似(あやかる)やうにと、其名を平八郎と名付、父母の寵愛一方ならず、生長の後を楽みに掌(たなぞこ)の玉と愛しみ育てけり、

此子、三四歳の頃よりして其智衆に秀で、一を聞て万を知るの才ありしゆゑ、夫婦ハ殊なふ悦び無難に育てんことのみ豊国の御神に祈り祀りけるが、早八九歳の頃になりては、大人(たいじん)も及ばざる程にて、殊に学問を好み、和漢の書籍に眼(まなこ)を晒し、又、暇ある時ハ、武術を何くれとなく師を求めて学ばしむるに、其奥妙を極めざる物なく、故に、近隣の者、平八郎が未だ幼稚にして、其何業に限らず熟達するの奇才を感じ、生長の後ハ如何なる人と成出んと、人々称賛しあへりと、

物換(ものかはり)星移りて、平八郎十四五歳になりける頃、学業武術とも追々進むに従ひ、京大坂にハさして師とし頼むべき博学の聞えある大儒もなかりしかバ、然らバ東都なる天下の儒官林大学頭殿こそ博学の聞へあれバ、何卒かの林家の門に入、勤学し、又暇ある時ハ将軍家の御膝元にハ名ある武術の達人も充満(みち\/)たれバ、是に便りて学び究めんにハ、一入其業に達する事もあらんかと思ひけるにぞ、

平八郎、或日、父へ此儀を願ひけるに、父も常々此事の思ひ絶ざる折なれバ、其ハ幸ひの事にこそ、我思ふ処も同じ、切角の所望ゆゑ許し遣んと、早速に其意に任せしかば、平八郎歓び勇み、急 ぎ出立の用意をこそハなしにける、

父の親族にて、江戸表の林家に親く出入する者ありけれバ是ぞ幸ひの伝手(つて)なりとて、彼の親族の許へ一書を認め、平八郎に齎(もたら)せ、篤く教諭して一僕を附従ハせ、頓(やが)て吾妻の空へと旅立をぞなしにけり


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