さて           かね
偖も平八郎は、予ての願ひ相叶ひ、東都へ下り、学問修行なさばやと、心に
                       もとより
歓び、父母に別れて、遥々と吾妻の空へ旅立ける、元来、初めての旅といひ、
       み ち
急ぎて急がぬ途次なれば、また見る事は兎も角も、名にし負ふ東海道の名所
    こゝかしこ
旧跡、此処彼処と見物なし、物憂旅もうち忘れ、いと眺めある心地して、一
人の僕を便りにて、悠々と道を歩み、急ぐともなくハヤ水口の駅に差掛りけ
           つ れ
る、然るに昼の程より同伴になりし一人の旅人あり、是も吾妻へ下る者とて、
もとより       あまた
元来東海道は数度往来せし由、平八郎にいと親しく噺しものし、始めてのお
                        ねんごろ
旅とあれば御不案内ならんとて、此処彼処の旧地など懇切に教へなどして打
 あるく           よきみちづれ         いた       みち つかれ
連歩行に、平八郎は好同伴得たりと、甚く歓び、途の労も打忘れ、興あるこ
とに思ひて辿りけるに、其日もハヤ暮ければ、今宵は此処に同宿し、一ツ座
       やが                  さら                   ゆき
敷に打臥しが、頓て鶏鳴暁を告ければ、然ばとばかり此宿を立出、行/\て
鈴鹿の山にさし掛りけり、
そも/\                  すまゐ
抑々この山は、其昔鬼賊の棲居して多くの人を悩ませしかば、田村将軍勅を
うけ                               し じ
請て彼鬼賊を退治玉ひし旧跡なりとて、今に田村大明神と崇め祀りて、四時
の祭礼怠りなく、いと神さびし霊社あり、樹木森々として昼なほ暗く物凄き
    こゝ                  おゝもち
山なり、爰へさし懸りし折ネ、伴ひし僕何やら済ぬ顔持にて主人平八郎に申
      とく      た ち
すやう、今朝疾彼宿を出立し節、粗忽にも風呂敷包みを失念せり、一走り往
         かしこ
て取来らん、君には彼処の峠を越て、前なる宿の立場にて待たまへ、忽ち追
                せわし
付申すべしとて、彼の旅人にも言葉慌忙く挨拶し、足速に跡なる宿へと引返
しける、平八郎は、彼の旅人と倶に峠の半腹に至りしに、かの旅人は、指さ
           こなた
して平八郎に言ける様、此方の道へ行く時は、聊か近道なり、旅馴玉はぬ人
々は、道を歩むに大いなる損の有るものなりとて、往還を横切て、彼の近道
へと這入けるに、平八郎も跡に附、悠々として歩み行しに、道なき所を分け
               かたへ                     だい
/\て頓て四五町も来りし頃、傍の松の木蔭より、雲突如き大の男が、一刀
横たへ顕れ出しを、平八郎は気も付ず、行過んとする程こそあれ、
   つ れ             めくばせ
彼の同伴になりし旅人と注目しつゝ平八郎を呼留め、両人左右に立はだがり、
こわつぱ                              ふたり
小童、汝が着する処の衣類は勿論、懐中物大小までも残らず出し、我々両人
        いな                   まなこ いか              たちまち
に渡すべし、若又否まば息の根止ん、と大の眼を瞋らして、否と言ば忽地に
               こなた             から/\
一刀両断になさんず勢ひ、然れど這方は不敵の平八郎、是を聞より呵々と打
          ことば             りよじん
笑ひ、少しも騒がず詞静に、扨は汝等、旅人と見せ、往来人を悩して、飽こ
                               かたわれ
と知らぬ山賊よなもし、然も有らばあれ、我とても両刀帯せし武士の片破、
        あは          あたら        とく/\
汝等ごとき手込に遇んや、若年者と侮つて可惜命を落さんより、疾々道を案
     だいおんじやう
内せよ、と大音声に呼はりて、泰然自若と扣へたり、
                    むきだ    こわつぱ
是を聞より両人の山賊、大ひに怒りて、目を剥出し、小童なりと侮りしに、
     にく             いとま
今の大言聞悪し、然らば汝が望みに任せ、此世の暇、目に物見せんと、鷲の
                しつか
小鳥を捕へし如く、平八郎が胸倉を確乎と捕へて投んとする時、平八郎は驚
                       ねぢあげ
く体なく、其手を取よと見てけるうち、忽地グツと捻揚て引担ぎさま、遥の
谷へウンと言て打込だり、旅人と見せし一人の賊、是を見るより大きに驚き、
小童なりと心を落附、不覚を取しぞ残念なり、いで物見せん、といふより早
く、腰なる一刀引抜て、真二ツにと切込だり、
                  かは
這方は平八、事ともせず心得たりと身を翻し、刀持手を拳を固め、勢ひ込で
うち              あなた                  すか
擲ければ、刀は飛て那方へ飛散、其身も其処に伏たりけるを、透さず平八飛
               さげを        くゝ   かたへ
懸り、腕捻揚て早速の捕縄、刀の下緒で確乎と縛り、傍の松の大木に縛り付
                 こども       ひとうち
しに、曲者は圧気に取られ胆を消し、小人と侮り、一討と思ひの外の力量早
   こ               すむ            ごんく
業、這は人間にてはよもあらじ、此山に棲天狗ならんと、只呆れ果、言句も
出ず、夢かと斗り黙然たり、
そのとき        にらま                    ふるまひ
案下平八、彼賊を吃度白眼へ声高く、汝人界に生を得て、鬼畜に劣れる行為
     いか     ゆる                はね
をなすを、争で天の免し給はん、今其首を刎べきなれど、一命助け遣はせば、
今我云事を耳底に留め、今より悪念飜へし、良民となり、天命を永く此世に
       なかま
保つべし、汝が党類の一人こそ、業因重く速かに、天誅来りて谷底の土とな
     むくひ            よきいましめ              ゆめ
るこそ悪の報応、是等を見ても其身に取、好誡の一ツとなすべし、努忘るゝ
                  もとゞり             ふつ
なと教訓して、落たる太刀を拾ひ取り、髻掴んで、根元より弗つと斬捨放ち
遣れば、其儘後をも見返らず、足速にこそ逃去けれ、
斯る処へ、以前の僕は、彼取落せし風呂敷包を取得て、道を急ぎ来り、主人
   はた                 おはせ      つ れ
平八に礑と出会、今の今まで若旦那には此処に竚立しか、同伴の旅人は如何
せしと、怪しみなから問ければ、平八郎は、然あらぬ体にて、然ればなり、
   つ れ   こゝら
彼の旅人は此辺近所に寄る処あり、又々先にて逢見えんと別れし儘に、只一
                さ き
人汝を見失ひもやせんと、此処に先刻より待居たりと語り出つゝ、其先なる
宿へとこそは急ぎけり、
のち                くはし        あやふき
後に至りて此事を僕に委く物語り、危険ことゝ話せしかば、僕は聞より舌を
          ひたすらほめ
巻、平八郎が行ひを、只管賛て驚き恐れ、末ハ天晴なる人となり給はんも頼
母しく思ひけるこそ道理なれ
 
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