Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.2.10訂正
2002.5.22

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大塩の乱関係史料集目次


『天 満 水 滸 伝』

その19

石原干城(出版)兎屋誠(発兌) 1885

◇禁転載◇

適宜、読点を入れ、改行しています。


○大塩兵を集めて軍を出す (1) *1

瀬田済之助が注進を聞て、大塩平八郎ハ、今ハ一時も猶予ならずと、相図の狼煙を打揚て、近郷一味の者共を集めけるが、手始に先真向なる浅岡が方へ大筒火矢を打懸つゝ、又建国寺の東照宮の御宮へ火器を用ひける、

是ハ建国寺を焼立バ、是非とも御宮守護として、消防の為町奉行出馬あるに相違なし、其時を待討取んと心構へをなし居しが、其も手違ひと成けれバ、無念の事と言ける内、近郷近在の百姓ども、相図の狼煙を見ると、斉(ひとし)く、すハ事こそ始まりたりと追々集り来りしにぞ、然あらバ人数を手配して押出べしと、予てより用意し置たる旗幟を押立たるハ、目覚しくも又勇ましき有様なり、

家の紋には蝶の丸を付来りしが、此度は本姓なりとて桐の紋の旗を真先に押立て、大筒を車に載せ、小筒火矢等数多所持し、先建国寺の手始めハ、空しくなれバ然らバとて、一散に打散し押行と、下知を伝へて隊伍を乱さず、大塩が宅より一行に備を立て押出しける、

此日各司(めい\/)の出立にハ、着込の上に装束を着し、卒(いざ)戦ひに臨みても、働き宜やう装ひしとぞ、

建国寺より引返し、聊か猶予すべからずと、長ネ(長柄)町を向へ取、天満の町家を焼立て、勿体なくも天満宮へ大筒を打込たる故、忽ち神殿焚上り見る\/一面に火となりしが、此時宮奴宮殿へ入り、天満宮の石像を取奉り、何れにも遁れ出んとせしかども、炎の中にて出へき道なし、コハ何とせん哀しやな、此侭此処に尊像と倶に焼んも口惜やと、一心不乱に天満宮の御名を唱へて煙中を那辺此辺(あちらこちら)と彷徨(さまよふ)うち、其応護にやありつらん、此石像を困(から)ふじて無事に出し奉つりしハいと有難きことどもなり、

逆徒の者共夫よりハ、青物河岸へ押出して、天満橋を渡らんとせしに、此所には御鉄炮同心に御城代の人数加り、倶に鉄炮の巣口を揃へ、厳しく固め居たりし故、小勢を以ては破り難しと、只一面に放火して、大筒鉄炮火矢等を打放して押行内、追々逆徒到着し、味方殖れバ勇気も増し、然バ此人数を以て一勢に天神橋を押渡らんと、橋の方を見渡せバ、南詰の方切落しあり、

平八郎是を見て打笑ひ、穢き奸人の仕業かな、察する処十分に我天兵を恐れたり、然れバ河岸真西に押行て、難波橋を渡り責破れ、と又々難波橋を指して押行たり、

爰に大根屋とて本願寺の賄ひなどす近来の出来分限あり、頗る身代も富裕なりしが、逆徒等此家を屹度見て、此大根屋を焼立べし、左すれば金銀を取出さん、とて押懸らんとして振返り、難波橋の方を見てあれバ、此橋も既に切落さんと杣共大勢打寄て、手々に斧もて橋杭を丁々と打有様に、此橋をまた落さるれバ、船なくてハ渡り難し、早く彼方へ押行とて、大根屋へは小筒のみ打捨にして、難波橋の杣共を目懸打掛るに、何かハ以て堪るべき、杣は斧鋸を捨て、命から\゛/逃走る、

爰に於て難波橋を難なく逆徒等押渡り、西へ進んで押行けり、


管理人註
*1 目次では「平八郎徒党押出しの事並に市中乱暴の事」


相蘇一弘「大塩の乱と大阪天満宮


『天満水滸伝』目次/その18 /その20

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