Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.2.10訂正
2002.1.31

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大塩の乱史料集目次


『天 満 水 滸 伝』

その4

石原干城(出版)兎屋誠(発兌) 1885

◇禁転載◇

適宜、読点を入れ、改行しています。


平八郎林家の門に入て学問を修業す
 并平八郎悪友に誘引(いざなは)れ吉原町へ往て独詩百韻を作る (1)

(かく)て平八郎主従ハ、急がぬ旅の気散じに、何の苦もなく江戸表、親族許へ着せしかバ、予(かね)て父より貰ひ来し書簡を出して、心願の仔細を明て頼みけれバ、かの親族何某も渠(かれ)が志しを深く感じ、幸ひ林家へ出入なせば、早速其由申し込願ひし処、林家にても、遠路を遥々我を頼みに罷越たる殊勝(けなげ)なる其心根を歓び玉ひ、直さま呼寄対面あり、

夫より林家に寄宿なせしに、元より執心のことなれバ、寝食をさへ打忘れて、只管(ひたすら)学問を励みしかバ、其上達も著しく、文章詩作ハいふも更なり、古(ふるく)よりして勤学せし書生といへど、平八が右に出るハ稀なれバ、末頼母しき若者と、林家に於ても思し召ける、

(さて)平八郎ハ、平生の行ひいとも正しくて、長者を敬ひ、幼稚(いとけなき)を最愛(いとをし)みつゝ、其身を 慎み、少しも浮たる事などなく、怠慢せずに学ぶ程に、師も殊更に愛しみ、余の門弟へも平八を見傚(なら)ひ学び励むべし、と教導さるゝ程なれバ、余の門弟の其中には、往々(まゝ)偏執の心あるハ、己が才の足ざるを知らで、却て心よからず思ふ族も数多ありしと、 隙(ひま)行く駒の疾(とく)過て、今年ハ最早平八が大坂の地を出しより、ハヤ三年の星霜(としつき)を重ねし、頃も春の日のいと麗かなる弥生中旬(なかば)同門の若者ども両三輩相談らひ、平八郎に対(むか)ひて言やう、

今や弥生の半にして、所々の桜爛たり、都下の人士観(みる)を競ひ、群衆一方ならずと聞中にも、風流の地と言ふハ、名にし負ふ隅田川の長堤(どて)の桜見ざるべからず、然るを我々鬱々と宿にのみ居て、駘蕩の此長日を暮さんハ余りといへバ無雅に本意なし、余り物に凝時ハ自然病を生ずるものとか、依て鬱を散ぜん為め、一日花を詠(なが)めんにハ隅田の桜に越ものあらじ、彼処(かしこ)へ赴き、詩を賦さバ、其詩の料にも乏しかるまじ、然(さ)すれば興を催さん、イテ貴兄にも御越あれや、

と若手の輩ら、只管(ひたすら)に勧めけるにぞ、

平八郎も遥々東都に来りてより爰(こゝ)に三年の月日を過せど、未だ名に負ふ隅田の花見ざるを遺憾に思ひ居しかバ、コハ国元への好土産、と頓(とみ)に承引(ひきうけ)御同道申すべし、とて日を約し別れて其日を待けるに、程なく期日となりしゆゑ、師に暇を乞、屋敷を出、先両国を始めとし、浅草観音へ参詣しけるに、音に聞えし霊地とて、老若男女の参詣、群衆引も切ざる賑に、偵(さすが)の平八も胆を消し、夫より大川橋を東へ渡り、三園(みめぐり)稲荷、秋葉の社牛(やしろうし)の御前、梅若塚と、名ある所を一覧し、桜の本の或茶店に割籠(わりこ)を開き、酒宴を張れど、平八元来(もとより)酒を嗜まず、只人々の酒宴するを眺めてのみ居たりしが、小筒(さゝへ)の酒も尽る頃ハ、ハヤ黄昏の程近けれバ、頻に皈路(きろ)を促すに、友なるものハ、平生より平八郎が学才ありて師の覚えの愛度(めでたき)を、心憎く思ふものから、各々予て言合せ那頑固(あのかたくな)なる平八事、いまだ江戸へ来りてより、遊所の味を知らざる由、一度渠(かれ)を彼処(かしこ)に遊バせ、其皈(かへ)ることを忘れさせん、と厭悪(いや)がる平八の左右の手を引張拏(ひきず)り、廓中へ連行、彼仲の町の茶屋に至り、此家の案内(あない)に江戸町の松葉屋といふへ誘引(いざなは)れ、各々日来の鬱を散して佳興にこそハ入たりける、


『天満水滸伝』目次/その3/その5

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