Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.8.21

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『天 満 水 滸 伝』
その32

石原干城(出版)兎屋誠(発兌) 1885

◇禁転載◇

適宜、読点を入れ、改行しています。


○守口宿へ捕手向ふ附宮脇志摩が始末

(さて)も二月二十日となり、火災消滅すると雖も、未だ余煙の吹覆ふて、逆徒は未だ守口宿に屯(たむろ)をなすといふ風聞の頻に聞えたりけれバ、彼地へ京都所司代より命を伝へて、伏見奉行加納遠江守久儔朝臣、手勢を以て固められ油断といふは少しもなきも、此折御城代を始めとし御番頭衆にハ御天守台へ登りて、守口宿の遠近を計られ、当所案内なる水島重兵衛、軍法諸事の心得ある服部又一郎を呼上られ、此両人を向ハせらる、

又町奉行所にては玉造組与力八田又兵衛及び高橋佐左工門の両人を城州直に召寄られ、守口宿へ馳参り、虚実を探り来るべし、尤も加納遠江守の人数も遣す由なれバ、其心得にて罷在べし、と申渡され、両人ハ余の人々の働きをいと浦山しく思ひ居しかバ、御定番よりの差図ハなきも、一手柄せんと同心引連、彼地へ急ぎ至りけるに、彼地は少しも手抜なく、口々の改め厳重にて、賊徒等屯する様子なけれバ、両人ハ本意なく思ひしが、

吹田村にハ平八郎が伯父権八郎といへる者、近来其村の神主となり、宮脇志摩と名乗居る由、渠(かれ)を召獲手柄せんと、其家へ至り取囲み、玄関先より声高く、宮脇志摩に御用ありと呼に、小者が立出て先\/御上り下さるべし、といふに怪しみ打通れバ、志摩ハ最早屠腹して、腹を袖にて打覆ひ、血塗れになり這出て、

某し昨日大坂に当り大火有りと見請たれバ、平八郎方心元なく、天満辺まで馳付て、様子承ハり候に、思ひも寄ず平八郎儀、逆徒の由に大に驚き、近親なれバ某し迚も遁るゝ道の是なしと、覚悟を極め候へども、此侭果て、後世(のちのよ)まで悪逆の名をば残さん事、いと口惜く存ずれバ、御捕方の向はるゝを待て、此段申述相果なん、

と先刻(さつき)より御出を待居候なりと言つゝ這出、切戸を開き血に塗れたる指を指し、

アレ御覧あれ、庭の松を手づから作りて未だ出来あがらず、斯程(かほど)の大事に組する者の争(いかで)安閑と慰みに斯る楽み致すべき、疑ひ晴し玉はれ、

といふ声もハヤ皺枯て、今息絶る如くなれバ、彼取巻し人数を引せ、村役人へ厳重に番を言付置けるが、是格別の手柄ならずと、夫より所々を見廻れど、是ぞといふこともなく、不肖ながらに立帰り、奉行へ其段達したりとぞ、

爰に散乱の後、淡路町に残りありし車台に、宮脇志摩といふ名あり、確実(たしか)に一味に相違なきに、右の始末の心元なく思ふも道理(ことわり)、風聞を聞に、彼宮脇志摩、乱暴後我家へ帰り、無残にも一人の養母を切殺し、其血肉をバ掴み出し、袖に包み腹に塗り、似腹なして両人を誑詐(たばかり)負せ、番人の隙を窺ひ逃出し、長島辺の明蔵に一夜を明し、見咎られ、其処を迯出し、神崎川榎本辺へ走り来て、渡船場近傍(もより)を眺るに、淀伏見の警衛厳しく、往来の改め厳重にて、今は何国(いづく)へも迯延難く、遂に庄本村に至り、猪名川堤の淵に於て、咽喉を貫き、半身を泥中に入て死したりとぞ、

彼吹田村の番人が其怠りハ、いふも更なり、八田高橋の両人ハ、其不覚をば悔みけるが、志摩自殺せしことなれバ、何れも穏便に事済けるとぞ、

京橋組与力米津靭負が物語りに、宮脇志摩、甞て平八郎が方に有て、権八郎と言し頃、田宮流の剣術を能遣ひ、又大島流の鎗の妙手にて、平八郎へも常に教へけるが、志摩、吹田村の神職となりし時、我受し印可を平八郎に譲らんと言けるに、平八郎、否々、武士を捨る者の免許ハ受まじ、と言て断然大島流を捨、佐分利流の鎗術を学びけると、

偖今度の企てにも、平八郎、志摩を一臂と頼み何事にもよらず相談なせし逆徒の張本ともいふべき者なりとぞ


坂本鉉之助「咬菜秘記」その27


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