Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.8.28

玄関へ

大塩の乱関係史料集目次


『天 満 水 滸 伝』
その33

石原干城(出版)兎屋誠(発兌) 1885

◇禁転載◇

適宜、読点を入れ、改行しています。


○大塩が家内の者京都にて召捕る (1)

爰に大塩平八郎ハ、大事を思ひ立しより日夜同志を語らいつゝ、彼橋本忠兵衛を二月の初旬(はじめ)我家へ招き、我等家内爰許へ差置時ハ、何角邪广(じやま)にて、妨げの筋も多けれバ、其許方へ召連行て、暫くの内差置るべし、追々時日も来りたれバ、早々頼み申なりと、

他事なく言れて忠兵衛ハ、一議に及バず承知なし、夫より何となく勧め込み、平八郎が妾ゆふ及ひ忠兵衛娘同人妾みね、又此腹に生れし二歳の男子と下女一人を随へて、一旦我家へ至りしも、其後如何なる仔細にや、摂州池田の親類なる糠屋七右衛門方へ連行て、大塩の家内をバ預ける、

扨も賊徒等敗走の後、大塩父子並に忠兵衛、常々出入の天満の日雇彼作兵衛を随へて、天満川の船に乗り右辺左辺(あちこち)彷徨干し(さまよひ)、漸くに其晩 景に及けるに、平八郎皆々を見返りて、時節至らず、今日の次第何共無念千方なり、今となりて浮々(うか\/)と此所に足を留め難し、

因て是より我々共分れ\/となり、身を忍び、我思ふ仔細も有なれバ、又々再会の期も有へし、

又忠兵衛には故郷へ帰り、兼て頼みし我一族を刺殺して玉ハるべし、斯いふも渠等ども、謀反の余類と探し出され、如何なる憂耻(うきはぢ)を晒させん事、甚だ不便のいたりなれバ早々に計らひ玉ハるべし、といふに、忠兵衛も承知の体に頓(やが)て大塩父子、忠兵衛も彼作兵衛も船より上り、西と東へ袂を分ち、闇夜(くらき)に紛れて立去ける、

偖忠兵衛ハ、心細くも彼作兵衛を引連て、糠屋へ至り、ゆふ、みねを一間へ招き申やふ、平八郎の思立の事情(ことがら)委しく咄し了り、今ハ遁るゝ道なけれバ、大塩さまの仰しやる通り、皆々一時に潔よく自害に及ひ玉ふべく、我介錯して倶々に死出三途を誘ハん、と泪と共に物語るに、両人は此事を始めて聞、何と語(ことば)も情なや、途方に暮て涙さへ、胸に閊(つか)へて出もやらず、忙然として居たりしが、みねハ漸々気を押鎮め、忠兵衛に向ひ言るやう、

偖も是非なき次第なり、今仰しやる通り科人となり、天下に生恥を肆(さら)さんよりハ、潔よく生害して相果んが、爰に一ツの障りあり、其ハ外ならず、此爰に去年出生(うまれ)の二才の男子、いまだ東西も弁へず、其愛らしさを殺すに忍びず、何卒(どうぞ)此子を助けし上にて、心残さず潔よく相果ん事こそ願ハしけれ、助かる工夫をなし玉へ、

と両人ハ、忠兵衛に取付て泣哀しみ、口説けれバ、我娘の産し孫と言ひ、可愛さ一層増加ハり、如何にも助け遣ハし度、と今ハ忠兵衛も心乱れ、然言るゝも道理(ことわり)なれバ、一先此処を立退て、京都へ出た其上に、また能思案も有べしとて、伊勢参宮より大坂へ見物がてら出し所、彼大変に出会て這\/逃れ来しと偽り、同者の体に姿を窶(やつ)し、ゆふ、みね二才の男子を懐き、下女りつに、忠兵衛、作兵衛、皆打連て伊丹を立出、二月廿五日に京都へ到り、柳の馬場三条下る町旅人宿にて生菱屋彦兵衛といふへ止宿なし、矢張京都見物と言偽り、其翌日より所々見物し、心ならずも日も送りしが、忠兵衛倩々(つく\゛/)思ふやふ、此物騒がしき折ネに浮々(うか\/)此処に居がたし、幸ひ美濃の苗木の城下に、我知音も有なれバ、彼処に忍ひ行て、兎も角も相談なして孫を頼み助けて、其後皆々に自害をさせて、我も又最期を遂んと心に点頭(うなづき)、彼二人にも此事を密々咄し、明日は疾(とく)出立なして、彼処(かしこ)へ行んと、皆の者ども議したりける、

扨も此時京都に於てハ、彼大塩が残党余類を厳しく御詮議ある時なりしが、間諜者(さぐりのもの)より内達あるハ、柳馬場三条下る町、生菱屋方へ去頃より止宿なし居る女連ハ、何とも合点の行ぬ者共、渠等(かれら)ハ、若や御尋の大塩平八郎が余類ならんも斗り知れ難しと注進しけれバ、御町奉行梶野土佐守が御手の組与力同心達、夫こそ怪しき者どもならんと、種々内探り有けるが、紛ふ方なき大塩が余類の者と有けるゆゑ、御組の与力同心達、彼生菱屋へ踏込て、御上意なりと呼ハりつゝ、難なく忠兵衛、ゆふ、みね始め一同召捕とハなりにける、

依て京都町奉行所へ引れて、一通り御詮議の上、大坂掛りの事なれバと、直に大坂へ引渡されしに、跡部山城守お受取ありて、夫より御白洲へ呼出され、皆々を御吟味に及ばれける、


『天満水滸伝』目次/その32/その34

大塩の乱関係史料集目次

玄関へ