Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.9.18

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『天 満 水 滸 伝』
その36

石原干城(出版)兎屋誠(発兌) 1885

◇禁転載◇

適宜、読点を入れ、改行しています。


○逆徒追捕の事 (2)

○天満東組の同心なる庄司儀左衛門ハ、散乱後、忍びて奈良まで落行しを、取方の者見出しけれど、渠(かれ)ハ剣術の達人にて、力量も亦衆に勝れ、容易に手をバ下し得ず、其旅籠屋に着、宿を借るを篤と見済し、宿の亭主と計りて、夜分酒を呑しめて熟睡窺ひて蒲団の四隅を押へ付、多人数ドヤ\/下重り、遂に搦取けるに、其床の内にハ、白刃を隠して儀左衛門ハ、歯噛をなし、卑怯未練にも計りし物かな、常なら此処に死人の山を築んものを、残念なり、と言罵詈(のゝしり)、奉行所へ引れ、罪にハ伏すも、唯平八郎を神と敬ひ、其志ざしを受継て、天下の事を罵詈て、其制するも聞ざりしと、

○近藤梶五郎ハ、十九日散乱の後、姿をバ非人と換て、市中に忍び、其後三月九日の夜、柄無き短刀を以て、天満なる彼組屋敷へ夜中に至り、自分の住居し屋敷跡の其焼原にて、物の見事に腹掻切て死したりと、是ぞ逆徒の其内にも、第一に潔よき自殺なりと、人皆称しあへりとぞ、

○御弓町同心竹上万太郎ハ、散乱の後、摂津国河辺郡中山寺の門前に有る旅籠屋にて、大黒屋と云へ泊りたるを、夜中に捕方踏込て召捕けるが、此万太郎ハ、彼の大塩に徒党なし、二月十九日家を出る時、上田五兵衛 *1 といふ者方へ書状を一通差出し置ける、其書状に曰く、

と手跡ハ常に子供等に筆道の指南もする者なれバ見苦からず認むれど、其心根に至つてハ、愚なる事抱腹に絶たり、今此反逆の罪に於る、従類迄も死刑になる、夫を何ぞや、愚痴らしき斯る書面の体、取に足ず、嗤ふべきの限なり、其家内八人ハ、親類(つゞきがら)のことなれバと、御鉄砲同心田中勘左衛門へ預け置れたりし処、小給の者とて、久くは預る事も成難くと、支配上田五兵衛方へ引取れける、

○東組与力大西与五郎ハ、平八郎が伯父にして、其以前町奉行大久保讃岐守勤役中、茶臼山一心寺へ御宮造立の事に付、あらぬ事ども願出し申立しが、越度にて讃岐守にハ御役御免差扣仰付られつ、一心寺住持ハ、御仕置と成しに付て、与五郎も同組与力侶倶(もろとも)に関東へ下り、申開済、帰阪して後、何となく心配なせしが原因(もと)となり、心気虚脱して健忘の如く、世にいふ痴漢(ばか)と同じ事ゆゑ、由緒なれども、平八郎ハ、此与五郎を一味に加ず、城州にハ、平八郎に説て切腹なさしめよ、若聞入ずんバ差違へよ、と既に十八日の夜与五郎へ申附られ遣さるゝに、憶病なれバ、平八郎方へも行ず、途中に考へ、渠(かれ)とは伯父甥の事なれバ、後日の咎めもや如何やと、恐をなして、悴なる善之進を同道なし、直に出奔して、西の宮近き灘と云所へ、大小捨忍行けるを見咎られ、是も召捕と相成ぬ、彼一味に有ざるも、奉行の命を請ながら、御用先にて逃出したる、其申訳なくして取込られ、古今未曾有の不覚者と、其頃人々沙汰しける、


管理人註
*1 上田五兵衛は御弓奉行。


『天満水滸伝』目次/その35/その37

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