Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.9.11

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『天 満 水 滸 伝』
その35

石原干城(出版)兎屋誠(発兌) 1885

◇禁転載◇

適宜、読点を入れ、改行しています。


○逆徒追捕の事 (1)

爰に安田図書と云者ハ、伊勢山田の浪人にて、二月十九日、淡路町散乱の後、強く労(つか)れて本町辺の下水の中へ鎗を打捨逃行を、町同心渡辺弥五右衛門、是を見付て捕へんとせしに、彼ハ頗る手利の者ゆゑ、手剛き働きなす処へ、町家の者ども数多(あまた)居合せ、彼渡辺に加勢して、終に生捕縛(くゝ)し上、先玉造会所に預け、手掛足掛を厳く懸て、一日二日其所(そこ)に守らせ、町奉行所へ引渡し、其後六月廿九日、御詮議有に付江戸へ差下さる、彼生捕の時に手伝し町家の者どもへ、奉行所より御褒美をバ下されしと

○瀬田済之助ハ、十九日散乱の後、所々を彷徨(さまよひ)、終日(ひねもす)歩行(あゆみ)て、河内国若江の垣の内に来りし頃ハ、飢労れて歩行もならず、或百姓家に立入て、気の毒ながら一飯を恵み呉よ、と乞ける時、内に一人の老姥在て、爰にハ是のみと、飯櫃に漸々一膳バかりなる麦飯をバ与へ置、猶他へ往て取来り参らせん程に、暫の間何卒(どうぞ)留守して下され、と云捨出行其跡にて、彼麦飯を喰居たるが、何か四辺(あたり)に人音して、物騒がしき有様に、済之助ハ心ならず、風の音にも心を冷すハ落人の身の習とか、大小掻取腰にたバさみ、早々此家を逃出し、志貴山の麓の忍地越に来りし頃ハ、百姓共ハヤ七八人鋤鍬を手に手に持て追懸来れど、今は飢労れて一歩も進まず、捕られんも流石恥辱と思ひやしけん、形影の松の大木ありけるを、此処ぞと目を付、百姓の追懸来るを遣り過し、右の大木へ帯解懸、遂に縊(くび)れて果しとぞ

○渡辺良左衛門、淡路町迫合(せりあひ)の時左の足に鉄砲疵を請たれバ、散乱の折、歩行さへ自由ならねど、河内国志貴郡の弓削に続きし田井中村といふ所に、漸(やつと)の事で至りしが、所詮存命叶ひ難く、其を存命(ながらへ)て生恥を肆(さら)さんよりハ、潔よく自ら首を刎んとせしが、気力尽しか、首を刎得ず、腹十文字に掻切て、俯伏に成、息絶しと、検使済て大坂へ引れ、御裁許迄ハ、其死骸を塩漬となし、差置れしとぞ

○高橋九郎右衛門、茨田軍治、弟斉治の三人ハ、散乱の後逃延て、 紀州高野山へ登りつゝ坊舎に至り、懇ろに爰に隠匿(かくまひ)置れたしと頼みけれど、昔と違ひ今ハ勿々(なか\/)容易にハ人を隠匿ことをなさず、其夜ハ漸く泊たれど、翌日(あくるひ)直に追出しけれバ、彼三人ハ行べき方なく、迚も遁れぬ処と思ひ、斯成上ハ他に術なし、同村の者の一味せし百姓共を差口せバ、同類たちとも其科の少しは軽ならんものと、いと穢くも自訴に及び、同村の百姓十人を差口しけれバ、一同に搦め取て、拾三人とも大坂表へ送られて、入牢申付られける、右の者等ハ、御城代の新領河内の守口 *1 なる三番村の郷民なりける、


管理人註
*1 門真三番村。


「御触」(乱発生後)その14

『天満水滸伝』目次/その34/その36

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