Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.12.1/2002.12.4修正

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大塩の乱関係史料集目次


『天 満 水 滸 伝』
その50

石原干城(出版)兎屋誠(発兌) 1885

◇禁転載◇

適宜、読点を入れ、改行しています。


○堀伊賀守殿家来茂三郎へ同人母到来の書状写

時候御さゝハりもなく、御嬉しく存じ上候、 殿様ます\/御機嫌よく被為入候、
扨此度の大変、江戸表にても嘸々御案じ入らせられ候半と、誠に\/御察し候まゝ、然し御勇もじ様に入らせられ候まゝ、御案じなき様に被仰上可被下候、
昨日おまつ親父様、江戸立と承り、夜中更るまで認め出し候へども、今朝承はり候へバ、廻り所多く、三月廿日頃にと申し、最早頼み遣 し候間、委細の事ハ其時に分り可申候、
誠に\/正雪この方の御事、火矢を合懸、大坂中火にて、誠に\/大事中\/筆に尽し兼候、
然し皆々別條なく、御蔵屋敷も火の中にて残り申候、然し帰り候ても、何も無御座候、御すゑ御道具、御泉水の井戸へ、何もかも打込、やう\/御吸物椀一ツころげ居候まゝ、夫にて殿様へ御茶を上げ候仕合、皆\/むすび、かう\/二タ切にて命をつなぎ申候、
私共帰り候て、やう\/汁を拵へ、一ツの吸物椀に汁を上げ、御きせにて御飯を上申、誠に大変一通りの火事とちがひ、とんと乱世にて、御表金三郎どのなど、悪党の手先の大将分の首を取、遠藤樣御組与力、殿様御連被成候処、是ハ鉄砲の上手にて、打取候首を鎗の先に貫ぬき、金三郎どの振廻して歩行申候、
皆々我勝に先へ\/と計りすゝみ、戦場に向ひけるハ、平常と違ひ、若手ハ少しも引退く者無之、今日なども鎗の鞘をはづし、御城の御供と殿様御笑ひ入らせられ候、与市も誠に身の冥加、御馬前にて討死と覚悟極めし、目さましき働きを心懸候へども、仕合と一人も怪我なく候、敵をし寄、両方より打合鉄砲の音きびしく、御馬驚き駈出し、御口取なく前へ 殿様もとびをり被成候、
金三郎も何れも御落馬か又ハ鉄砲に御当り被遊候かと、御供一同こぶしを握り候処、直に御飛乗御差図被遊候由、今日火矢を見申候、
東さま御組の与力にて御坐候、恐ろ敷企て、なか\/半年や一年の工みにてハなくと申候、
妻子を刺殺し、我家へ火をかけ候と申候へども、実ハ十八日に妻子ハ落し候由、厳しく御吟味故、追\/召捕られ候得共、いまだ両人ハ行衛相知れ不申、然し廿日の夜より廿一日迄、大筒度々に候処、
まづ\/気遣ひなくと仰られ候、
然し皆着替候て、やう\/人になり候て、みな\/顔色よくなり候まゝ御案じ被成まじく候、
只今 殿様御直書出候、私へも茂三郎へ一封出し候様、被仰候まゝ、御案じなきやうと申進じ候、
京都でさへ、両町奉行討死との風聞いたし候事にて、かへつて殿様御吉事と存候、
東樣ハ御手抜と皆\/申居候、火矢など頓て江戸へ参るべく御覧なさるべく候、与市呉\/も全く怪我もなきだん、私より申くれ候樣頼み候、
常三郎樣御夢中にて候、御機嫌よく御立のき被遊、御帰り後も御機嫌よく候、いやな事に御あい遊バし、御いとをし樣に存候、
私の品\/まづ\/なくなり候物もなく、息才に勤め居候、親類中へあつくよろしく頼み上候、 御上にも御案じなき樣に仰上可被下候、
今日やう\/御湯をめし、御酒を御奥にてあがり、直に御表へ御出、せわしき事申計りもなく候、
東様の者御こわがり、御家中一統鎧兜にてふるへ、働らけず、此方様ハ火事具御手袋さへ御忘れにて入らせられ候と被仰候、誠に目ざましく御蔵やしき迄、火の中にて御座候、やう\/煙くさきも直り申候、
悪党どもはや\/捕られ候様、神かけ念じ居候、
飢饉の上、大火火矢にあひ、死人多く是ある由承り、すさまじき奴、其くせに小男と申す事、中\/正雪この方の奴と申、手下多と承り候得共、中々御威光にて、今に\/召捕られ候事と存候、
誠に及バぬ願ひ、此節静謐の御代に、馬鹿者あまり慢心と申候、
あら\/めでたくかしこ、
焼場所あらまし申進し参らせ候、
天満十一丁目より東川崎まで焼ぬけ、北ハ野中迄、天満宮并御堂三ケ寺焼失、川南ハ難波橋西詰より、東ハ御城馬場先まで、南久太郎町辺、夫より玉造東ハ野中まで焼抜、廿日暮六ツ時過より、やう\/火鎮り申候、天神橋落、其外よしや橋高麗橋焼落申候、


管理人註
この書状は、いくつかの史料に記録されているが、『塩逆述巻3』に詳しいものがある。
和田義久「『塩逆述』巻之三を読み終えて


『天満水滸伝』目次/その49/その51

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