以上の如く融通普遍にして、方寸の虚は直に宇宙を含有すべ
しと雖も、若し其間一片の障礙来らんか、忽ち一大変動を見
ん。其変動たる、直に死生に関するものにして、心の虚盈は、
即ち生死と云ふべく、其の虚は、実に生命の妙機なり。故に
ハ カラ ル シテ セ シ テゝ レバ セ
曰く方寸之虚与 太虚 不 可 不 刻而 通也。如隔而不 通焉。
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則非 生人 也。何者今以 物塞 乎口中 。即方寸之虚。閉而呼
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吸絶矣。忽為 死人 。故方寸之虚。不 可 不 刻通 於太虚 也。
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是無 他。以 太虚即心之本体 也と。説き得て明切、更に疑ふ
へきなし。然れども彼は世人が此妙理を誤解せんことを恐れ
たり。故に種々の方面より太虚の妙を説けり、即ち理気合一
より太虚を言へり。人若し理気合一を了解すれば、太虚は、
則ち理気に外ならざれば、自ら之に悟入するを得ん。若し理
気を離れて太虚を言はゝ、荒唐無稽の太虚と成り了りて、我
スレバ ヲ モ
所謂聖人の道にあらすと。彼曰く了 理気合一 。則太虚亦惟
ノミ モシ レテ ヲ フ ヲ ハ ル ニ
理気焉耳。如離 理気 。而言 太虚 者。非 四書五経聖人之道
也と。此点に在て釈老に陥り易きものあるを以て、特に理気
を以て之を説く、尽せりと謂ふべし。今、藤樹の解説を以て
之を説かば、方は理なり、寂然不動に象り、円は気なり、流
行活動に象る。此理気之を太虚となすなり。釈老の太虚は、
寂然不動のみにして、所謂稿木死灰の如きものなり。流行活
動、生々不息の妙機なし。此一点は、我道と釈老との同しか
らさる所にして、之を区別すること極めて緊要なりとす。
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