中斎は、心と云ひ、方寸の虚と云ひ、又た太虚と説くこと甚
た多し。而して此等の虚は、相互に連絡するものとす。今、
中斎が所謂心とは、如何なるものを指すか方寸の虚とは如何
なるものなるかを討究するは、尤も緊要なる事と信ず。夫れ
中斎が心と云ふは、即ち五臓中の心臓を指して云ふものなり。
心臓は、即ち心にして、此外別に心あることなしと云ふ。而
して五臓中の心臓は、其大さ僅に方一寸なりと。彼れ曰く
ハ チ ニシテ ニ ラ ナル ハ ニ
心即五臓之心。而不別有心也者也。其五臓之心。僅方一寸。
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而蘊蓄天理焉と云ふ。然らば則ち心は、即ち方寸の虚にし
て、天理を包含するものと云へり。而して中斎は、唐凝庵の
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説を引き、其説を証して曰く、唐凝庵曰。性不過是此気之
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極有條理虚。舍気之外、安得有性。心不過五臓之心。
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舍五臓之外。安得有心。心之妙処。在方寸之虚。則性之
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所宅也と。此に由て之を観れば、心臓を以て仁義礼智の出つ
る所にして、一切の徳義は、悉く此れより出つとしたる説は、
中斎に在りては創見なれども、之と暗号する説は、既に以前
シテ レ セ ス ヲ
より在りしなり。故に、吾説不与之期而同符と云へり。
従来、心とは何そやと云ふ問題は、困難にして、今日と雖も、
明確に一定せる説なきが如し。而して心臓を指して心なりと
云ふ説は、業已に勢力なきが如し。然れとも其心臓即心と云
ふ心は、如何なるものかと云ふに、中斎は之を解して虚霊な
るものにして、善悪共に無く、虚空なれば能く神明の用を為
ハ ヨリ シ トモ ト カラ
すと云へり。即ち曰く、心体虚霊而已矣。悪固無雖善不可
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有。如先有善而塞焉。則神明終不能為用也と。其意を尋
ぬるに、虚霊にして神明の用を為すものと云へは、朱子の所
ハ ヘテ ヲ スル ニ
謂心者人之神明。所以具衆理而応万事者也と云ひ、又、
心者虚霊不昧と云ふと異なることなし。而して心に善なく
悪なしと云ふは、陽明子の所謂無善善悪之体。と云ふに同
し。而して其無善無悪の心は、即ち太虚なれば、君子は到知
格物し、以て其体に帰せんことを務む。已に太虚の体に帰す
れば、万事万物は皆な其中に涵容し、日用の応酬より、以て
天地位し、万物育するの最大功徳に至るまて、皆此より出つ
と云へり。心を説く、蓋し尽せりと謂つべし。
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