中斎更に太虚の用を説き、太虚に帰すると否やに由て、人間
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と器物の差を生すと云へり。其言に曰く、心帰 乎太虚 。然
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後実理始存焉。不 帰 乎太虚 。則実理埋没了。与 物不 異と。
茲に所 謂実理とは元亨利貞是なり。実理已に埋没し了れは、
人にして人にあらず、其霊何くにあらん、実に恥づべきの至
ハ チ ナリ ス シテ
なり。彼更に詳論して曰く、太虚即実理実気。充塞満布。而
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有-形之類。雖 不 虚 乎中 者 。亦皆有 至虚之存 焉。見 草
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木 可 知と。有形の類は一見充実して虚なきか如くなれども、
其実は至虚の存するありて、理気は万布せるを見るべしと云
ふ。今至虚と云ふは、物質分子間の空隙を指すなり。其質は
如何に堅実なるものも、至虚の存せさるなり。既に虚あれば、
必す理気は存せさるなし。彼既に人為的と自然的との別を云
ひ、此に又た有形的の空虚と無形的との別を言へり。然れど
も彼は偶々区別を挙けて説くも、其意は唯共通の虚ありて、
理気の存するを言はんとするのみ。故に区別するに意なくし
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て、両者の虚を混同融通するに資するなり。彼が見 草木 可
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知。と言ふが如きは、博物学も亦斯学を捕益するを知るべし。
而して彼は唯心を知るを先とし、動植物の学を以て、労して
功なきものとせり。蓋し誤れりと云ふべし。
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