第三 太虚に帰するの工夫
中斎は太虚を以て理想とし、此理想に到達するを以て、最大
目的としたれば、其工夫を凝したることも、既に尋常一様に
チ フ ニ
あらず。之を彼の言行に徴するに、或時には暁行忽値 雨而
シ コリ テ ニ ク フ ノ ニ メニ カ ケハ チ モ
無 蓑笠 。頭項迄 手脚 尽霑。是時心為 之動。即方寸之虚。
タ フ レハ カ チ ト チ テ ニ ル ヲ ニ
亦復霑也。不 動則太虚之不 霑乃一般。因 此処又悟 人 水不
ハ ヲ キ ヲ ク ヲ
濡之理 と。又曰く、「暁行聞 寺鐘 。又聞 村鶏 」と。此の
如くして太虚を悟り、之に帰するの工夫を凝らせり。注意の
周到実に称するに堪へたり。中斎は時々刻々 、造次顛沛に
も、太虚に帰するの工夫を廃せさりしが如し。中斎の登富士
ニ テ ヲ ル ヲ ヲ ニ タ ス ヲ
山の句に曰く、「口吐 太虚 容 世界 。太虚人 口又成 心。心
ト ク スルハ ヲ
与 太虚 本一物。人能存 道 只今乎」と。視聴言動思一とし
て太虚を忘るゝことなし。然れども人或は其工夫を為すの順
レハ ムニ フル
序を誤るものあれば、乃ち誡めて曰く、非 積 陽明先生 所訓
ヲ チ ル ノ ユ ニ ニ
致良知之実功 。則不 可 至 於横渠先生所 謂太虚之地位 。故
セハ ヲ セント ニ ク ス ヲ シテ サ ヲ ル ヲ
欲 心帰乎太虚 者宜 致 良知 矣。不 致 良知 而語 太虚 者。
ス ラン ニ ンヤ ル レ
必陥 於老之学 。可 不 恐哉」と。太虚に帰するには、之を
誡むること極めて切なり。
中斎専ら太虚に帰して後に、仁義を行ふへきことを言へは、
或は未た太虚に帰せさる者は仁義を行はすして可なりやの疑
タ セ ニ モ ラ カ
を発するものあり。故に曰く、「未 帰 乎太虚 者。不 自欺 。
シ ヲ ナリ チ レ ス
自謙。誠 意之功夫。徹動徹静。徹昼徹夜終始一焉。便是為
ヲ シテ スル ニ
仁義 之道。而 帰 乎太虚 之窮也」と。仁義を為むるの道は、
即ち太虚に帰するの径路なることを知れば、未た太虚に帰せ
ざめものと雖も、豈に仁義を忽にすべけんや。又彼は聖賢の
時中と、世俗の功偽とを弁別して帰太虚の功夫を示して曰く、
ハ ニ シテ シテ テ スルハ
「心之太虚、既復。而 随 時変易。則聖賢之時中也。心之太
ヤ タ スルハ シテ ヤ タ ヤ ニ フ
極未 復而変易。則世俗之功偽也。而其始甚徹。其終大違。
ニ ク ムト テ シ ナレハ ルニ テス ヲ ノ ニ タ セ
故云。君子慎 始。差若毫 。繆 以 千里 。是故未 復 太虚
ニ ハ ニ ル ヲ
太極之体 者一守 経而已矣」と。経を守り道を修めて、漸く
太虚に帰せんとす。是れ亦雑念を去り、静に帰するにあり。
彼は専ら人欲を去るを以て、帰太虚の工夫となす。故に曰く。
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「心帰 乎太虚 非 他。去 人欲 。存 天理 。乃太虚也」と。
人欲を去るの一條は甚た釈老に類す。然れども天理を存する
の一條は、大に釈老に異なる所以にして、最も注意を要する
所とす。孔孟の書は、絶えて去欲を語らす、唯少欲或は寡欲、
若くは減欲と云ふのみ。釈老と判然区別あり、中斎は人欲を
去るべきを云ふ、直に釈老と同からずとするも、其語既に病
あり、故に特に弁解を煩さゞるを得ず。然れども又曰く、
スルモ ニ リ モシ シテ ヨリヤ
「人心帰 乎太虚 亦自 慎独克巳 而入焉。如不 自 慎独克巳 。
レハ
而入則禅学虚妄と。凡そ聖賢愚不肖の岐分する所、只此の人
欲を去り、天理を存するの程度如何に在り。其の完全に至れ
ば、即ち所謂有言の太虚にして、不言の聖人の域に到達した
るものと云ふべし。
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