シテ セ
中斎子は逆に太虚と良知の関係を示して曰く、「不 心帰 乎
ニ シテ フ ヲ ナ ノ ニ ノ
太虚 。而謂 良知 者。皆情識之知。而非 真良知 也。真良知
ニ ノ ミ
者非 他。太虚之霊而已矣」と。此語を前きの語に代ふれば、
横渠先生所 謂太虚に帰するにあらされば、陽明先生の訓ふる
所の良知を悟る能はすと云ふに等し。而して太虚と良知は其
本体より云へば、同一体のみ、故に其工夫を凝らすの順序、
スル ニ
当に此の如く自由なるべし、帰 太虚 の方法も、自反慎独。
格物到知の外にあるへからず。人の情識の知、以て、良知と
誤認するは則ち良知を慢易するものなり。夫れ到良知は易き
か如くにして難く、難きか如くにして易し。陽明嘗て曰く、
ケル ニ リ レ ニ ルニ ニ
某于 良知之説 従 百死千難中 得来非 是容易見-得到 此。此
ト ノ シテ ムヲ レバ ニ キ ス タ ル ヲ
本学者究竟話頭。不 得 已与 人一口説尽。但恐 学者得 之容
ニ ノ シテ ヲ シテ センコトヲ ニ
易只把 做一種之光景 玩弄 孤 負 此 知 耳」と。此の如くな
るが故に良知を説くもの、其機根に応して深浅の不同あるを
免れす。是故に中斎は其開導教誨の方法順序を示して曰く、
テ ヲ フモ ニ タリ シテ ハ シ
「以 灯燭 喩 良知 似矣。而灯燭有 起滅 。良知無 起滅 也。
テ ヲ ニ シ ハ シ ラハ
以 日月 喩 良知 近矣。而日月有 晦触 。良知無 晦触 也。然
テ ヲ ヘン ニ シ レ ハ レ
則以 何喩 之。無 喩者 。夫良知只是太虚霊明而已矣。然而
テ テ ヲ フ ニ シ テ テ ヲ フ ヲ シ
有 時以 灯燭 喩 之。亦無 不可 。有 時以 日月 喩 之。亦無
テ ニ テ ノ
不可 。開導教誨於 中人以下之方法 。不 可以不 如此也」と。
尚ほ中斎は良知を致すの工夫は、但た人を欺かさるのみなら
ず、先つ自ら欺く忽れ、自ら欺くなきの功夫は屋漏より来り、
戒慎と恐懼と、須臾も之を遺るべからずと云ひ。且つ彼は頓
悟を云ふなり。頗る禅学に類する所あり。曰く「一旦豁然。
レハ ヲ ニ チ セン
見 天理乎心 、即人欲氷釈凍解矣」と。此語は禅学に所 謂直
指人心。見性成仏と云ひ。亦釈迦が菩提樹下に廊然大悟して、
等正覚を成したるが如きの感あり。然れども其の此に至るは、
自反慎独の功夫を凝らしたる後にあることは、既ら縷述せし
が如し。尚ほ吾人は到良知の方法は決して、空禅にあらずし
て、最も卑近に日用応酬の間にあることを明言せざるを得ず。
若し壁に面して達磨の如く、心法を練るものとせんか、是れ
陽明学の罪人なり。若し此の如きを以て致良知、帰太虚を為
さんとする者あらば、真に獅子身中の虫にして斯学を して
枯禅に陥らしむるなり、豈に注意せざるべけんや。
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