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思ふに此一篇や実に中斎が満腔熱血の迸る所、字々赤誠を溢らし、
句々烈霜を挟む、憐愍の情、淋漓紙上に満り、慷慨の気躍々人を
襲ふ、後人が中斎を欽慕して奮起するもの、此献身的事業に由ら
ずんばあらず。フランクリンが米国独立の檄文も、精神と気象に
於ては、毫も之の右に出づること能はず、読者豈に軽々看過すべ
けんや。
十九日、砲声一発、以て事を始む、時に東風暴烈、火焔天を覆ふ、
直ちに鴻池、三井、山城屋諸豪家を火す。既にして幕兵来り防ぐ
者多く、衆寡敵せず、軍気漸く沮喪しき、中斎遂に事の成すべか
らざるを見て各自去就を決せしめ、自から格之助と共に見吉屋五
郎兵衛の宅に隠る。霹靂一声、雷霆既に収まり、猛獅一吼、踪跡
既に失へり、二百年来昌平の夢一時に破れて四海騒然たり、探求
太だ急にして一片の人相書は諸方に飛ばされたり。
大塩平八郎
一 年齢四十五六歳 一 顔細長く色白き方
一 眉毛細く薄き方 一 眼細くツリ候方
サカイキ
一 額開き月代青き方 一 耳鼻常体
一 丈常体中肉 一 言舌爽かにして尖とき方
其節の着用、鍬形甲着用、黒き陣羽織、其余着用不分、
翌月事遂に覚はれ、吏卒来り捕ふ、父子乃ち火を放て之を禦ぎ以
て自刃しき。時に天保八丁酉三月二十六日なり。
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大塩人相書
(古文書)
自刃は、
三月二十七日
中瀬寿一他
「『鷹見泉石日記』
にみる大塩事件像」
その4
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