評 論
中斎学の王陽明より出て、中斎が如何に王陽明を欽慕せしかは、
上来論述する所に拠て歴然たり。中斎の管鮑の友、頼山陽、之を
称して小陽明と云へり、中斎は度量極めて狭隘、王陽明の気宇宏
濶なるが如くならず。二氏の人物を比較すれば、其種類を同じく
すれども、其等級に大差あり、彼を大と云ひ、此を小と云ふは、
亦止むを得ざるものあらん。王陽明が毅然として立ち、百難を排
して屈せざりしが如く中斎も亦始終幾多の障礙に打勝ちて其志を
成せり。中斎は独立不羈の人なり、彼は徒論空談者にあらず、彼
は其生命を掛けて、其学説を樹立し、遂に其主義の為めに斃れた
り、彼言は充分に彼自身に依て証明せられたり。伯夷叔斉が仁を
求めて、首陽山に餓死せしと、中斎が見吉屋五郎兵衛の倉の奥に
焚死したるとは、毫も異なる所なし、若し、伯夷叔斉にして仁を
得たりと云はゝ、豈に中斎仁を得ずと云ふべけんや。中斎嘗て王
ツト
陽明に誓て曰く身を殺して仁を成すは予が懋むる所と、是れ豈に
空言ならんや。熟々中斎当時の学風を考ふるに。海外の儒教萎靡
振はず、字義訓詁にあらずんば、則ち詩文記誦のみ、況や当時朱
子学は我国の正教として奨励せられ、異学禁止の令既に発布せら
れたるをや。中斎と同時に出でゝ最も王陽明を尊崇せし佐藤一斎
が、陽朱陰王主義を採りしは全く此禁令に由れり。斯る外界の影
響を脱却して、毅然として独立し、曠世の下、異域の外に、陽明
と相契合し、三輪執斎以来、百余年間、殆んど中絶したる陽明学
を再興したるは、頗る称するに足る。加之、此の如く時弊を蝉脱
して、自家の学説を唱道したるは、将来我邦学者の独立の精神を
鼓舞すること極めて大なるものあらん。
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