Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.4.25

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩中斎」

その56

高瀬武次郎 (1868−1950)

『日本之陽明学』榊原文盛堂 改訂 1907 所収


◇禁転載◇


 評 論(2)管理人註

特得の見 先駆 重言

中斎学が王陽明より来れることは、最も明白なることなれども、 其根本主義たる太虚説の如きは、未だ全く陽明子より得たりと云                  バ リ     ニ ふを得ず、中斎自らが「一生之心血半在于此書」と云ひ之を富 士の高嶽に蔵め、之を伊勢の太廟に献じたる、洗心洞剳記は其特 得の太虚説を説くもの彼れが如く詳密なり、中斎を以て世の盲信 瞽従の学者と同一視するは已に誤れり。然れども予は私に疑ふ、 其太虚説は二三の先駆を有することを中斎は元来儒教を奉じて釈 老を排斥するものなり。故に其説を老子より得たりと云ふを許さ ず。自己は張子及び陽明子に得て、之を祖述したることを云ひ、 且つ剳記の開巻第一に谷神の二字を借れるは、後段に於て其人を 択ばず、其言を採ることを弁せり。藤樹、蕃山二子の如きも、既 に微かに太虚説の素を為せるを見る。之を要するに其太虚主義は 中斎子自ら言ひし如く、老子より得たるにあらざるも、老子の虚 無説が、如何に彼説を裨益せしかは推知せらるべし。故に吾人は 言はんとす、中斎子は老、張、王、三子に対して先駆の労を謝せ ざるを得ずと。遠くは之を老子に得、其退歩的消極的分子を捨てゝ、 進取的積極的分子を附加し、近くは之を張、王二子に得、精錬発 達せしむ。而して之を集めて大成し、以て自己の根本主義とした るの功は、特り之を中斎子に帰せざるを得ず。剳記に云く、「陽          ハ チ レ ノ             ハ チ レ       ト 明子曰。「良知之虚便是天之太虚。良知之無便是太虚之無形。」          シ ヲ ル シテ      モ キ タ ナル ニ 吾太虚之説皆亦祖述此来而張子之太虚無復異之也」と。然れ ども此れ荘周の所謂「重言」にして、其真を古人に取るに過ぎず。 太虚を以て根本主義となし、蔚然一家を成したるものは、中斎の 功績なり、中斎は広く四書五経等の書より、空虚に関する語を求 めて、儒門空虚聚語上下二巻及び附録一巻を著はして自説を証す るに努めたれども、是れ東洋学者の尚古の常態を踏襲せしに外な らず。何れの方面より考ふるも、中斎特得の功は遂に滅すべから ざるなり。太虚を以て自家哲学の基礎として、森羅せる万般の現 象を解釈したるは、中斎の力なり。然れども中斎も亦自ら其太虚                            モシ 説が、老仏と混同せられんことを虞ふるや、則ち曰く、「人如無 ナレバ チ リ ラ   ス    レバ チ ズ ラン フ スルヲ   ニ    シテ セ 欲 則独自了悟焉、否則必有于老仏弁而可也」と、 盖し其学に忠実にして、其説を護るに謹慎なるに感ぜずんばあら ず。
















洗心洞箚記
その2
 


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