天保の改革
政治家とし
ての忠邦
忠邦の立身
についての
内部的運動
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大塩平八郎の暴動は、成功しなかつたけれども、それに刺戟されて平
田篤胤の門人生田道満が三千余人の同志を糾合して、富豪征伐を起した
ことなどがあつて、幕府の勢威に対して反抗することの、必ずしも不可
能でないことを明示した。少しばかりの兵力を擁した大塩らでさへも、
あの位のことが出来るのだと云ふ感じを諸大名に与へた。此事は、容易
に看過し難い問題であつた。幕府は、今に於て、何とかして其疲弊と衰
弱とを治療して、面目を立直す必要があつた。果然、水野越前守(忠邦)
の天保改革が実現さるゝことになつた。
水野忠邦は知見に富んだ、遠識ある進取的政治家ではなかつた。寧ろ
保守的、回顧的な政治家で、其長所は剛毅果断で、稍々権変を弄し得る
ところにあつた。彼れは主として皮相的に眼前の時弊を矯めようとする
に急であつて、内部的に時弊の根本から改めてかゝらうとはしなかつた。
そこに彼れの大きな欠点があつた。けれども幕府が一時彼れを重用して、
改革の手を動かさしめたのは、当時適当の人材がなかつたからで、幕府
は人物の上に於ても、一種の衰兆を呈して居たのだ。
忠邦は老中として漸く其驥足を伸ばし始めたのは、天保五年春のこと
である。剛毅な彼れも、一時は、当時の世風を追うて、家斉に取り入つ
て自己の地位を固めたことがあつた。即ち南鍋町の風月堂の娘が美貌で
あることを聞いて、切に懇望して養女として家斉の侍妾としたことがあ
つた。爾後、天保十二年までは、家斉が政局に臨んで自分の思ふ通りの
ことをして居たので、忠邦は十分に其特色を発揮しなかつたが、其間、
大塩騒動のほかに仙石騒動なども起つた。殊に時局上、重要であつたの
は外交問題であつた。
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