Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.6.5

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩騒動と天保改革」

その10

高須梅渓(1880-1948)

『国民の日本史 第11編 江戸時代爛熟期』早稲田大学出版部 1922 所収

◇禁転載◇

第十九章 大塩騒動と天保改革
  第三節 蛮社の獄と水野忠邦(1)
管理人註


天保の改革


















政治家とし
ての忠邦














忠邦の立身
についての
内部的運動

 大塩平八郎の暴動は、成功しなかつたけれども、それに刺戟されて平 田篤胤の門人生田道満が三千余人の同志を糾合して、富豪征伐を起した ことなどがあつて、幕府の勢威に対して反抗することの、必ずしも不可 能でないことを明示した。少しばかりの兵力を擁した大塩らでさへも、 あの位のことが出来るのだと云ふ感じを諸大名に与へた。此事は、容易 に看過し難い問題であつた。幕府は、今に於て、何とかして其疲弊と衰 弱とを治療して、面目を立直す必要があつた。果然、水野越前守(忠邦) の天保改革が実現さるゝことになつた。  水野忠邦は知見に富んだ、遠識ある進取的政治家ではなかつた。寧ろ 保守的、回顧的な政治家で、其長所は剛毅果断で、稍々権変を弄し得る ところにあつた。彼れは主として皮相的に眼前の時弊を矯めようとする に急であつて、内部的に時弊の根本から改めてかゝらうとはしなかつた。 そこに彼れの大きな欠点があつた。けれども幕府が一時彼れを重用して、 改革の手を動かさしめたのは、当時適当の人材がなかつたからで、幕府 は人物の上に於ても、一種の衰兆を呈して居たのだ。  忠邦は老中として漸く其驥足を伸ばし始めたのは、天保五年春のこと である。剛毅な彼れも、一時は、当時の世風を追うて、家斉に取り入つ て自己の地位を固めたことがあつた。即ち南鍋町の風月堂の娘が美貌で あることを聞いて、切に懇望して養女として家斉の侍妾としたことがあ つた。爾後、天保十二年までは、家斉が政局に臨んで自分の思ふ通りの ことをして居たので、忠邦は十分に其特色を発揮しなかつたが、其間、 大塩騒動のほかに仙石騒動なども起つた。殊に時局上、重要であつたの は外交問題であつた。

  

「大塩騒動と天保改革」(抄) 目次/その9/その11

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