Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.6.4

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩騒動と天保改革」

その9

高須梅渓(1880-1948)

『国民の日本史 第11編 江戸時代爛熟期』早稲田大学出版部 1922 所収

◇禁転載◇

第十九章 大塩騒動と天保改革
  第二節 大塩騒動の表裏観察(4)
管理人註

平八郎の激
怒と奮起































同志の裏切
りと平八郎
の失敗

 それに富豪の群れも、申わけばかりの寄附をしただけで、冷然として 窮民の困難を脇息にもたれ乍ら、三つ蒲団の上に踞座して見やると云ふ 有様で、これも平八郎の眼には甚しく不快に映つたであらうと思はれる。                      かながしら 曾て矢部定謙と時事を談論して、激情のために金頭と云ふ魚を頭から尾 まで一気にばり/\と噛み砕いたことのあつた平八郎であるから、勿論、 富豪の行動に向つて激怒したことは云ふを俟たぬ。反跡部熱、反富豪熱 が時事慷慨熱とからみ合つて、自然、彼れをして、窮民のために一切の 蔵書、器具を売つて救済に力めしめ、進んで兵を挙げようと決心せしめ たことは略々首肯さるゝのである。当時の彼れの策戦計画は、勿論、要 を得たものでなかつた。彼れは救済した一部の窮民に「天満天神の辺に 火事があつたら駈け付けてくれ」と云つて、暗に自己の挙兵の日に声援 せしめようと準備しないではなかつたが、其与党数十人と、銅砲、木砲 四個とを以てして、自己の企図を成就せしめることの不可能なることは、 恐らく理想家の彼れも覚悟してゐたにちがひない。  かうして彼れは、天保八年二月十九日の夜、兵を起したが、偶々それ に先立つて同日早暁、其同志中にあつた平山助次郎ら二三のものが変心 して、西町奉行所に事の内容を密告したため、事は全く齟齬した。平八 郎は激文を四方に飛ばして、其与党と共に先づ自分の家を焼いて暴発し、 北船場に於ける鴻池、三井以下の富豪らに向つて発砲した。一時彼れは 烏合の衆を集めて勢を強めたけれども、大阪城に向ふ途中、城代らの加 勢を得た両奉行の兵に逆襲された為め、到頭敗北した。彼れは一時、其                            (註二) 養子と共に知人美吉屋五郎兵衛の許に潜んだが、捕吏に迫られて自刃し てしまつた。それは彼れが四十五歳の時であつた。   (註二)楽真子、後凋生の共著『古今史譚』中には平八郎が生きのび    て欧州へ赴いたと云ふ説が出てゐるが勿論虚構である。

激文
「檄文」の誤
植か















   

「大塩騒動と天保改革」(抄) 目次/その8/その10

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