平八郎の激
怒と奮起
同志の裏切
りと平八郎
の失敗
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それに富豪の群れも、申わけばかりの寄附をしただけで、冷然として
窮民の困難を脇息にもたれ乍ら、三つ蒲団の上に踞座して見やると云ふ
有様で、これも平八郎の眼には甚しく不快に映つたであらうと思はれる。
かながしら
曾て矢部定謙と時事を談論して、激情のために金頭と云ふ魚を頭から尾
まで一気にばり/\と噛み砕いたことのあつた平八郎であるから、勿論、
富豪の行動に向つて激怒したことは云ふを俟たぬ。反跡部熱、反富豪熱
が時事慷慨熱とからみ合つて、自然、彼れをして、窮民のために一切の
蔵書、器具を売つて救済に力めしめ、進んで兵を挙げようと決心せしめ
たことは略々首肯さるゝのである。当時の彼れの策戦計画は、勿論、要
を得たものでなかつた。彼れは救済した一部の窮民に「天満天神の辺に
火事があつたら駈け付けてくれ」と云つて、暗に自己の挙兵の日に声援
せしめようと準備しないではなかつたが、其与党数十人と、銅砲、木砲
四個とを以てして、自己の企図を成就せしめることの不可能なることは、
恐らく理想家の彼れも覚悟してゐたにちがひない。
かうして彼れは、天保八年二月十九日の夜、兵を起したが、偶々それ
に先立つて同日早暁、其同志中にあつた平山助次郎ら二三のものが変心
して、西町奉行所に事の内容を密告したため、事は全く齟齬した。平八
郎は激文を四方に飛ばして、其与党と共に先づ自分の家を焼いて暴発し、
北船場に於ける鴻池、三井以下の富豪らに向つて発砲した。一時彼れは
烏合の衆を集めて勢を強めたけれども、大阪城に向ふ途中、城代らの加
勢を得た両奉行の兵に逆襲された為め、到頭敗北した。彼れは一時、其
(註二)
養子と共に知人美吉屋五郎兵衛の許に潜んだが、捕吏に迫られて自刃し
てしまつた。それは彼れが四十五歳の時であつた。
(註二)楽真子、後凋生の共著『古今史譚』中には平八郎が生きのび
て欧州へ赴いたと云ふ説が出てゐるが勿論虚構である。
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激文
「檄文」の誤
植か
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