大阪に於け
る与力の権
勢
廉直の平八
郎
平八郎の手
腕
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こゝで一言して置かねばならぬのは、当時に於ける大阪の官僚のこと
である。経済本位、町人本位の大阪は幕府の直轄で、武人階級と云ふも
のが殆どなかつた。僅かに城代、東西両奉行及び天満組与力六十人と同
心百人とが居るに過ぎなかつた。其中城代は大阪守備の任に当るだけで、
市政は奉行、与力、同心らによつて運用された。だが、市政を支配する
ところの両町奉行は度々交迭して、大抵両三年の中に他へ転ずると云ふ
有様だつたから、実際上に於ける市政の支配権は、与力中の俊才の手に
あつたのだ。
それで、与力の禄米は、表面、八十石に過ぎなかつたが、実際収入は
二千石取にひとしかつた。勿論、それは、役柄に附属した副収入による
ので、北組、天満組、南組三郷の町人や諸株仲間などから、年頭、八朔
などが附届けがあつたのだ。若し収入を恣まにしたら、まだいくらでも
収入を増加し得る有様だつた。だが、平八郎は、其点に於て大体、潔白
廉直であつた。其事は彼れが頼山陽に送つた詩の中に、「家中獄を鬻ぐ
の銭を納れず」とあるのを見てもわかる。延滞した或訴訟を平八郎が直
ぐに解決した際、原告人から金銀入の菓子箱を送ると、彼れは直ぐ突き
返したと伝へられたほどだ。
彼れが与力としての手腕を思ふ存分に発揮し得たのは、主として高井
山城守(実徳)が大阪町奉行として、十一年間も在勤して、平八郎の人
物を能く認識し、重用したによるのである。高井実徳は、文政三年十一
月、大阪町奉行となつて、天保元年七月まで在任した。其間、平八郎が、
与力として卓抜の手腕を示したのは、堕落僧の検挙と所罰、邪教宣伝者
豊田貢ら一類の処分、西組与力地方役で収賄に力めた弓削新右衛門らを
厳しく糺弾したことなどである。
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鬻(ひさ)ぐ
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