Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.5.29

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩騒動と天保改革」

その3

高須梅渓(1880-1948)

『国民の日本史 第11編 江戸時代爛熟期』早稲田大学出版部 1922 所収

◇禁転載◇

第十九章 大塩騒動と天保改革
  第一節 大塩平八郎の人物と其周囲(3)
管理人註


大阪に於け
る与力の権
勢
















廉直の平八
郎


















平八郎の手
腕

 こゝで一言して置かねばならぬのは、当時に於ける大阪の官僚のこと である。経済本位、町人本位の大阪は幕府の直轄で、武人階級と云ふも のが殆どなかつた。僅かに城代、東西両奉行及び天満組与力六十人と同 心百人とが居るに過ぎなかつた。其中城代は大阪守備の任に当るだけで、 市政は奉行、与力、同心らによつて運用された。だが、市政を支配する ところの両町奉行は度々交迭して、大抵両三年の中に他へ転ずると云ふ 有様だつたから、実際上に於ける市政の支配権は、与力中の俊才の手に あつたのだ。  それで、与力の禄米は、表面、八十石に過ぎなかつたが、実際収入は 二千石取にひとしかつた。勿論、それは、役柄に附属した副収入による ので、北組、天満組、南組三郷の町人や諸株仲間などから、年頭、八朔 などが附届けがあつたのだ。若し収入を恣まにしたら、まだいくらでも 収入を増加し得る有様だつた。だが、平八郎は、其点に於て大体、潔白 廉直であつた。其事は彼れが頼山陽に送つた詩の中に、「家中獄を鬻ぐ の銭を納れず」とあるのを見てもわかる。延滞した或訴訟を平八郎が直 ぐに解決した際、原告人から金銀入の菓子箱を送ると、彼れは直ぐ突き 返したと伝へられたほどだ。  彼れが与力としての手腕を思ふ存分に発揮し得たのは、主として高井 山城守(実徳)が大阪町奉行として、十一年間も在勤して、平八郎の人 物を能く認識し、重用したによるのである。高井実徳は、文政三年十一 月、大阪町奉行となつて、天保元年七月まで在任した。其間、平八郎が、 与力として卓抜の手腕を示したのは、堕落僧の検挙と所罰、邪教宣伝者 豊田貢ら一類の処分、西組与力地方役で収賄に力めた弓削新右衛門らを 厳しく糺弾したことなどである。






























鬻(ひさ)ぐ

「大塩騒動と天保改革」(抄) 目次/その2/その4

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ