Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.6.1

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩騒動と天保改革」

その6

高須梅渓(1880-1948)

『国民の日本史 第11編 江戸時代爛熟期』早稲田大学出版部 1922 所収

◇禁転載◇

第十九章 大塩騒動と天保改革
  第二節 大塩騒動の表裏観察(1)
管理人註


陽明学者と
しての平八
郎




















天保の飢饉

















両町奉行の
窮民救

 平八郎が与力の職を辞して隠居したのは、三十七歳の精力尚ほ旺んな 時代だつた。勿論それは、彼れの知己であつた高井実徳と進退を共にし た結果であつた。爾後、彼れは、陽明学者として、彼れに従学するとこ ろの人々を教導してゆく方に全力を傾けるやうになつた。陽明学者とし ての彼れは、関西に於ける第一人者と云つてよかつた。彼れの門下には、 林良斎(多度津藩老職)、田能村直入、宇津木靖、大井正一郎、瀬田済 之助、小泉淵次郎、渡辺良左衛門、白石孝右衛門、橋本忠兵衛、柴屋長 太夫、但馬守約、湯川幹、松浦誠之、松本乾知、平山助次郎、吉見九郎 右衛門、河合郷左衛門などが居た。大塩騒動の時、平八郎に加担した門 人は二十余名だつた。  平八郎が暴動を起すに至つたのには、勿論色々の原因が錯綜して居る が、其直接の要因の一つとなつたのは天保の饑饉である。文政十一年以 来天変地異が続出したが、先づ暴風雨に見舞はれたのは九州、中国であ つた。十二年三月には江戸に大火があつて焼死者二千八百余人に上り、 天保三年には全国はいづれも凶作のために苦しめられた。爾後、天保七 年に至るまで、年々、凶作が続くと云ふ具合だつたから、江戸市中には 餓死人を生ずる、江戸附近には打壊しが始まると云ふ風で、米価は非常 に暴騰した。  かうした際に大阪に於て、町奉行の職に居るものは、民政的手腕と民 衆に対する誠実とを要した。ところが、天保四年の凶作に際して、大阪 に打壊し運動が起らずに済んだのは、当時の両町奉行矢部駿河守(定謙)、 戸田備前守(忠栄)の二人が、臨機の処置を誤らなかつたからであつた。 彼等は、一方、買占、囲米などする奸商を厳しく取締ると同時に、大阪 三郷から外所へ輸出する米の数量を制限し、また酒造高をも一定した。 而して他方では、市内の富豪から金品を寄附させたり、籾倉を開放した りして、一般の窮民を救うふことに努力した。



旺(さか)んなは白が
正しい

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