陽明学者と
しての平八
郎
天保の飢饉
両町奉行の
窮民救
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平八郎が与力の職を辞して隠居したのは、三十七歳の精力尚ほ旺んな
時代だつた。勿論それは、彼れの知己であつた高井実徳と進退を共にし
た結果であつた。爾後、彼れは、陽明学者として、彼れに従学するとこ
ろの人々を教導してゆく方に全力を傾けるやうになつた。陽明学者とし
ての彼れは、関西に於ける第一人者と云つてよかつた。彼れの門下には、
林良斎(多度津藩老職)、田能村直入、宇津木靖、大井正一郎、瀬田済
之助、小泉淵次郎、渡辺良左衛門、白石孝右衛門、橋本忠兵衛、柴屋長
太夫、但馬守約、湯川幹、松浦誠之、松本乾知、平山助次郎、吉見九郎
右衛門、河合郷左衛門などが居た。大塩騒動の時、平八郎に加担した門
人は二十余名だつた。
平八郎が暴動を起すに至つたのには、勿論色々の原因が錯綜して居る
が、其直接の要因の一つとなつたのは天保の饑饉である。文政十一年以
来天変地異が続出したが、先づ暴風雨に見舞はれたのは九州、中国であ
つた。十二年三月には江戸に大火があつて焼死者二千八百余人に上り、
天保三年には全国はいづれも凶作のために苦しめられた。爾後、天保七
年に至るまで、年々、凶作が続くと云ふ具合だつたから、江戸市中には
餓死人を生ずる、江戸附近には打壊しが始まると云ふ風で、米価は非常
に暴騰した。
かうした際に大阪に於て、町奉行の職に居るものは、民政的手腕と民
衆に対する誠実とを要した。ところが、天保四年の凶作に際して、大阪
に打壊し運動が起らずに済んだのは、当時の両町奉行矢部駿河守(定謙)、
戸田備前守(忠栄)の二人が、臨機の処置を誤らなかつたからであつた。
彼等は、一方、買占、囲米などする奸商を厳しく取締ると同時に、大阪
三郷から外所へ輸出する米の数量を制限し、また酒造高をも一定した。
而して他方では、市内の富豪から金品を寄附させたり、籾倉を開放した
りして、一般の窮民を救うふことに努力した。
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旺(さか)んな
白石は白井が
正しい
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