Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.6.2

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩騒動と天保改革」

その7

高須梅渓(1880-1948)

『国民の日本史 第11編 江戸時代爛熟期』早稲田大学出版部 1922 所収

◇禁転載◇

第十九章 大塩騒動と天保改革
  第二節 大塩騒動の表裏観察(2)
管理人註

天保七年度
の凶作と大
阪市民の困
窮















東町奉行跡
部良弼の人
物














色々の誤聞


















鴻池を説い
たとの説

 ところが、天保七年の凶作の時には、大阪に於ける窮民の困苦が、四                   (註一) 年の時よりも一段の甚しさを加へて米一揆が起つた。一つは当局者に矢 部定謙のやうな民政的手腕を有するものが居なかつた為めだ。天保四年 の米価は、江戸で一升百六十七文であつたが、天保七年、大阪に於いて 米価一升二百文に上つた。それに窮民に対して与へた金品の量も、天保 四年のやうに豊富ではなかつた。其上、天保七年七月、東町奉行として             すけ 大阪に来た跡部山城守(良弼)は、凡庸、驕慢で、民政的手腕に於て、 遥かに矢部定謙らの下位に居た。  跡部は矢部の後を襲うたのであるが、其赴任の際、矢部の教へを求め た。矢部は先づそれに対して、大塩平八郎のことを話して、「彼れはも う隠居したが、やはり、一個の 俊傑だ。しかし彼れは悍馬のやうな男 であるから、巧みに駕御することが肝要であらう」と注意した。跡部は それを意外に感じて「隠居した与力に何の力があるか」と見くびつてかゝ つた。それが抑々の誤りであつた。畢竟、跡部の驕傲と人物を見る眼の ないことを証拠立てたものだつた。  だが、平八郎と跡部とが、窮民救恤上のことについて衝突したと云ふ 俗説は当を得て居らぬ。勿論、跡部が東町奉行となつて以来、平八郎の 同僚、後輩と折れ合ひがわるくて、西組与力の助力を求めようと云うや うな内談が西町奉行堀伊賀守(利堅)との間に持ちあがつた為め、自然、 東組与力、同心の不平を喚び起し、惹いて平八郎の感情を害したことは あつた。けれども、平八郎が其養子格之助を通じて窮民救済策を跡部の 手許に差出し、再三其実行を促したのに、跡部はこれを採用しないで 「狂人だ」と罵つたといふことは、一片の風説に過ぎないのであつた。  それから、平八郎が鴻池以下の富商に義捐金を勧めたところが、一旦 承諾して置きながら、後で跡部の意嚮を質して抑止された為め、約束に 背いたと云ふことはどうも受け取りかねることだ。隠居の身である平八 郎が、以上のやうに万事突込んで、救済に当らうとしたことは、余りに 市政に対して干渉がましいことであるから、恐らく平八郎はそこまで手 を伸ばさなかつたらうと思はれる。けれども窮民を救ふ目的で、鴻池ら に向つて金談を持ち込んだ位のことはあつたかも知れない。要するに、 以上二個の俗説は、大分誇張されたやうに思はれる。   (註一)『大阪市史』及び『堂島旧記』参照。


























駕御
(がぎょ)
人をうまく
使うこと

抑々
(そもそも)























意嚮
(いこう)

「大塩騒動と天保改革」(抄) 目次/その6/その8

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