邪教宣伝者
を厳罸す
豊田貢と其
一類
平八郎の名
声
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それから豊田貢一件は、文政十年四月に検察の手をひろげて、三年の
後に漸く結了した難問題であつた。此事件は一部の伝奇小説を読むやう
で、詳しく書けば頗る興味があるけれども、茲には要点だけを略記する。
それは京都八阪に於て稲荷教を宣伝して、愚民を惑はした豊田貢の余類
が、大阪に於ても迷信深い一部の市民を欺いて、少からぬ金品を貪り取
つたことである。平八郎は検察の手をそれに着けたのだつた。
(註一)
豊田貢は西国の浪人水野軍記と云ふものから、キリスト教らしい儀式
と催眠術と神道の禊に類した仕方とを混合したやうな邪教を教へられて、
それに共鳴した結果、自ら稲荷教を唱へ出して「八阪の見通し」と云は
れる程の勢力を京都に扶植したのである。彼女は当時五十歳を越えて居
て、比較的に真面目なところもあつたが、其余類で、同じく軍記の指導
を受けたところの老女さの、きぬの二人は、大阪で邪教を悪用して、全
く詐偽的のことを働いた。世間では、此一類を切支丹のやうに解した居
たが、キリスト教の皮相を模したところがあるだけで、実はそれには何
の関係もない純然たる邪教だつた。畢竟、平八郎はかうした怪奇の色彩
を帯びた方面に峻厳な糺弾を加へ、其一類のものを悉く厳罰して一段落
を告げたのである。此事も、京阪市民をして、平八郎の卓越した手腕を
歎迎せしめた。平八郎の名声は、陽明学者としてのほかに、与力中に俊
豪として京阪に高くなつた。
(註一)幸田成行氏『大塩平八郎』参照。
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幸田成友
『大塩平八郎』
その39
幸田成行
ではなく
幸田成友
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