Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.6.3

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩騒動と天保改革」

その8

高須梅渓(1880-1948)

『国民の日本史 第11編 江戸時代爛熟期』早稲田大学出版部 1922 所収

◇禁転載◇

第十九章 大塩騒動と天保改革
  第二節 大塩騒動の表裏観察(3)
管理人註

暴動の諸原
因














陽明学者と
しての特質






















跡部の窮民
救済につい
ての欠点

 平八郎が暴動を起こした原因は、饑饉のほかに、東組与力同心の不平 が与つて居たことを事実であるとして、さて其他はどうか。私は第一に 跡部の処置に対して不満を抱いたこと、第二に当時の富商が享楽に耽つ て、窮民の困苦を冷かに見たこと、第三に平八郎が窮民に対して深い同 感を寄せたこと、第四に憤り易く、激し易い彼れの性質によつたこと、 第五に陽明学の知行合一の精神に共鳴したことなどを教えへたい。  以上のうちで私は特に陽明学者としての彼れの思想と信念とが、彼れ の暴動――彼自身にあつては任侠的行動――に最も与つて力のあつたこ とを認めたい。陽明学の要素は知行合一にある。知識即実行にある。陽 明が「知は是れ行の主意、行は是れ知の工夫だ。知は是れ行の始め、行 は是れ知の成である」と云つたのがそれだ。平八郎は順直に此言を守る と同時に、其死生観に於て「生を求めて仁を害してはならぬ。生あれば 滅がある。仁は太虚の徳で、万古不滅のものだ。万古不滅のものを捨 てゝ、滅するものに附くのは人の惑ひだ。だから、志士仁人は、生を捨 てゝ仁を取るのである」と云ふことを主張した。彼れが窮民に対して、 深い同情を寄せたのも、また其挙兵の決心をしたのも、陽明学の影響か ら来て居ることを思はせる。  窮民救済のことについては、跡部も、或程度までは力を尽したのだ。 決して彼れの役目を怠つたわけではなかつた。けれども彼れの遣り方に は、遺漏があつて、矢部のしたやうに、ぴたりと隙き間なく、実效を示 すと云ふところまでは行かなかつた。それに矢部は好んで、隠居中の平 八郎を招いて、其智慧、才覚を利用したけれども、跡部は最初から平八 郎の智慧を借りようとはしなかつた。万事平凡な自分の才覚によつた。 それがため善意を以て、堂島の米相場を取締つたり、大阪三郷の米の輸 出を禁じたりしたのだが、それに附随して市街に接続した近村にまで米 を輸出しなかつたやうな矛盾を生じて、大阪附近の窮民を苦めたのみな らず、米価調節のことも却つて米価を高めるやうなことになつた。それ に一方では、江戸から廻米の命令に接すると、それを拒み得ないで、兵 庫方面へ人を派して、米を買ひ上げると云つたやうな点があつて、平八 郎の眼から見ると、可也に矛盾した点が多く、不徹底なところも少くな かつたのだ。

   

「大塩騒動と天保改革」(抄) 目次/その7/その9

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