其の翌日、弓削新右衛門は割腹した。彼に説き伏せられた天満の作兵衛、
鳶田の久右衛門、千日の吉五郎等の主魁も割腹を遂げた。其の部下は、割
腹したり、何処かへ姿を隠したりした。
平八郎の力によつて全く滅却された。高井山城守は、彼の才智を驚異す
ると同時に賞讃した。根本的に悪党が廃されたので、大阪の民衆は双手を
上げて喜んだ。それは高井山城守の力だと思つたが、後で大塩平八郎だと
解つて、彼を『民衆の神』とか『民衆の生仏』とか、謳歌するやうになつ
た。
その当時の大名は、民衆に偶像崇拝視されてゐた。しかし表面上は尊敬
されてゐた。それに反して大塩平八郎は、民衆から親しまられ、愛されて
ゐた。そこに彼の偉大なところがあつた。民衆を引きつける尊いものがあ
つた。
平八郎と大名の差は、釈迦と田舎の小学教員ぐらゐであつた。若し彼に
尊敬振つた名を贈るなれば、それは『愛の教師』としたい。即ち彼の愛に
よつて、市街は改造されたのであつた。
或る大名は、彼の人間としての価値や、仕事に対する真実さに恐怖の念
を抱いてゐた。それは彼が或る機会に乗じて、民衆の一角に旗幟を立てる
と推測したからだ。また或る大名は彼の人格を認めて、共に事業を計企し
ようとしたが、確と拒絶された。それほど彼は人望があつた。真の人間に
ならうと努めた彼は、謙遜をし、さうして真実に生きた。それが却つて人
望を光らす本源となつた。
平八郎は弓削新右衛門一派を滅廃するのは、容易でないと考へてゐた。
若し言論で解決が出来ぬ場合は、どうしても暴力を用ゐなければ、事が成
就せぬと思つてゐた。その度に死を覚悟してゐた。さうして自分の身辺を
総て妻のゆうに頼んだ。
ゆうは曾根崎新地一丁目、大黒屋和市の娘で、その当時、ひろと呼んだ。
平八郎が学業の余暇に、悪友に誘はれて、青楼に通ひ、廓の酒に浸つてゐ
るうちに、彼女と恋に落ちた。しかし世の中を繕ふ為に、文政元年頃、摂
州般若寺村百姓忠兵衛の妹分として、大塩家に迎へられた。その不自然の
ことは自分もよく知つてゐた。それは周囲の事情の為であつた。さうして
当分、妾として置いた。その時、平八郎が、廿五六で、ゆうが二十歳前後
であつた。
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