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平八郎は賞讃の意味で彼に新しく酒肴を供へた。彼は微笑を湛へて舌鼓
をうつた。こゝぞと思つた平八郎は、襟を正して威厳ある声でかう云つた。
『聞くところによれば、此の頃、天満、天王寺、鳶田、千日前に悪党が、
出現して民家を騒がし、庶民の物品を掠奪したり、婦女を欺いたりするこ
とだが、貴殿は御承知か。』
『いや、知らん。』と、頭を振つた。
『知らんとあれば、貴殿は職務怠慢では御座らぬか。』
平八郎に突込まれた彼は、身体を顫はして、その返答に困つた。その当
時は官吏が職務を怠慢すると、進退伺をするのであつた。しかし場合によ
つて割腹もした。彼は急にそれを思ひ出した。
『して、職務に怠慢でなければ、知つてゐる筈だ。』
平八郎の顔は見る/\うちに険悪になつた。遉の新右衛門も強健なる平
八郎の態度に驚いて、静かに後へ退ると、肩を聳かして真面目な顔をした。
『知らないものは知らぬ。職務に怠慢では御座らぬ。世間では貴方が、云
はれるやうな振舞ひをしたことは毛頭も御座らぬ。何かの誤伝では――』
『誤伝ではない。』
平八郎は床の間に置かれてある黒塗りの手文箱を持つて来た。新右衛門
は、その箱を見つめて考へた。何が出てくるのだらうと好奇心はそゝがれ
た。開けると、折目正しい二通の書簡を取り出して、恭々しく押し拡げて
新右衛門の膝下に置いた。その書簡は高井山城守のであつた。新右衛門の
身体は、ぶる/\顫えて顔色が蒼褪めて来た。
『それでも知らぬと云ふのか。』
平八郎は大声を放した。
『いや……』
と彼は強く云つたものゝ、後の言葉は吃つて出なかつた。
『この書状によると、貴殿が主謀者ではないか。貴殿が主になつて、貴殿
の部下を引連れて、暴れ廻はつてゐるではないか。貴殿等の行為で泣いた
庶民が何人あらう。』
と、平八郎は扇子で畳を打つて、
『これでも知らぬと云ふのか。』
済まないと云ふやうな顔をした彼は、石のやうに堅くなつた。
『これでも知らんと云ふのか。』
と、平八郎は書簡の両端を掴んで、彼の顔に触れるやうに近くに持つて
来た。新右衛門は眉根を顰めて、ぢつと見てゐたが、何んと思つたか白襦
袢一枚になつて、腰の近くにある子刀を握り、鞘を払はうとしたから、平
八郎は彼の手首を強く握つて止めた。
『お離し下さい。』
と、彼は振り離さうとしたが、平八郎が強く握つてゐるので、どうする
ことも出来なかつた。
『いや、離されん。見上げたものだ。貴殿の心底は解つた。拙者は貴殿に
お願ひがある。それは貴殿と同様な行為をとつた者を御訓戒下さい。それ
をおこなつてこそ、貴殿も男の中の男だ。』
煽られた彼は、逆上して素早く立ち上つた。
『拙者もお途子で御座る。』
斯う一言を残して、その場を逃げるやうに去つた。
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幸田成友
『大塩平八郎』
その25
遉
(さすが)
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