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大阪の寺院は天満の北隅と上町の東南隅とに蝟集されてゐた。天満の方
は寺町橋を境界として、其の道筋を東寺町、西寺町と称した。上町の方を、
谷町、寺町、八丁目町と称した。たぶん、元和落城以後、城主松平下総守
忠明が、新しく町割を行ふ際、一大苦心をしてこの二ケ所に集合したらし
い。これらは郷以外で、税を納める必要はなかつた。が、一向宗の寺院に
限つて、町中にゐることを許可された。その代りに町人同様に納税したも
のだ。
それで大阪、及びその附近の寺院の総数は各宗派合して、四百弐拾弐ケ
寺あつた。御朱印のある寺は、四天王寺と生玉神社だけで、残余は一切檀
家の寄捨で維持されてゐた。
仏教は日本の根本的宗教であると云ふ元目のもとに、幕府は仏教の社会
化に努力した。その前提として寺院が、生活難に追はれては、本当の宗教
運動が阻害されると考へた幕府の御役人様は、寺院の物質的保護に尽力し
た。
大坂では各派の寺院が、その檀家に『宗旨請状』と、その『宗旨手形』
を出させるようにした。この手形がなければ、移転や奉公等の総て戸籍上
の変動を許さなかつた。また或る町に住んでも各々これを貰つて、その町
会所に届出る。町会所は、それを一纏にして、家持、借金、宗旨、人別等
の帳簿を創つた。それは現今の戸籍台帳のやうなものであつた。それには
戸主家族の氏名年齢はもちろん戸主の氏名の上に、必らず××宗、××町、
××寺檀家と記入した。
僧侶は葬礼、法会、又は説教などを行ふ旁、戸籍官吏のやうな仕事をし
た。それが原因となつて民衆と密接なる関係を結ぶやうになつた。その為
に、寺院は物質的に豊富であつた。
当時の大阪の花街は実に旺盛であつた。若い僧侶達は金銀を積んで、読
経三昧で黙視してゐるわけには行かなかつた。人間味の風は吹き込んだ。
彼等は紅灯の下に絵模様の盃を甞めながら、詩歌管弦に耳に傾けるように
なつた。彼等に誘はれた老僧も頻りに足を繁くした。総ての僧侶は肉の讃
美者となつた。僧侶の行為が、妖艶かしくなつたのに気の付いた町奉行所
は、屡々僧侶の破戒を誡め、精神修養を奨励した。如何に権力を以て抑圧
しても、水の泡であつた。町奉行所は、その所置に困つた。遂に見て見な
い風をした。他人に迷惑をかけなければ、敢て咎めぬ方針でゐた。それを
知つた僧侶達は、裁縫や、洗濯等をして貰ふ理由のもとに芸娼妓を落籍し
て妾とした。また極秘に売春婦を泊らせたり、芸妓を呼んで、騒いだりし
た。何処の寺院からも、三絃の音は漏れた。僧侶は頭を頭巾で隠して、魚
類や鳥類の肉を求めに行く。また酒樽をかつぎ込む。中には、人妻を恋し
て馳落する者もあれば、情死する者もあつた。参詣に来る婦人の中に美人
があれば、甘言を用ゐて引き摺り込み、淫慾を恣にして、放り出すのであ
つた。そんな不法行為は諸所に起つた。それが本基となつて婦人は、寺院
と称するものに恐れを抱くようになつた。
しかし僧侶の堕落は、大坂ばかりではなかつた。全国がみんなさうであ
つた。それが漸次に、表沙汰になつて来ると、町奉行へ訴へに来る者が多
いので、御役人様はいよ/\黙視してゐられなくなつた。遂に文政十三年
三月、山城守が平八郎に僧侶の汚行検挙を命じた。彼等に対して、寛大な
処置をとつてゐた平八郎は、再三再四、涙と血で書いた触書を出した。即
ち檄を飛ばしたのだ。それで行為を悛める者が多くなかつた。
その触書に逆つた僧侶は遠島にした。これが由因となつて僧侶は心底か
ら、人間としての僧侶となつた。さうして仏の道を説くようになつた。
平八郎によつて吏風の頽廃と僧侶の堕落が改造された。彼の名声はいま
正に登らんとする朝の太陽のやうに煌々と輝いた。民衆は双手を高く上げ
て、歓喜の中に彼を迎へなければならぬ時が来たのであつた。
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幸田成友
『大塩平八郎』
その29
「浮世の有様 巻二」
僧侶取締布令
「浮世の有様 巻四」
文政十二年
大塩の功業
その2
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