元来、江戸は政治の中心だが、商業の中心は大阪であつた。東西諸藩の
米穀、其他の産物は大抵この地に蝟集された。それで各藩の蔵屋敷があつ
た。即ち蔵役人がゐて、その財務を握つてゐた。金銀に換へると、国元と
か、或ひは江戸の屋敷に送つた。で、大坂の大資本家が西国筋の諸侯の米
穀を引受けて売捌いた。斯う云ふ訳で米穀は、もとよりその他のものは多
く大坂から江戸、それから其他に廻送した。大坂には二十四組の大資本家
があつて、それらの貨物を取扱つて江戸の十大資本家に渡すやうになつて
ゐた。夫故にどんな物でも相場は大坂で定まるのであつた。
全国の貨物が大阪を経て江戸に入る。商業上の権利を江戸の大資本家が
専握してゐるので、物価が益々上るのは当然のことだと考へた幕府は、そ
の大資本家の特権を撤廃した。さうして全国の各藩に大坂を経ずに、直ぐ
その物産を江戸へ廻送するように忠告的の命令を下した。その結果、江戸
の物価は益々騰るばかりであつた。その政策は資本家仲間に依つて裏切ら
れた。幕府は資本家側から信用を失つた。的の脱れた幕府は面喰つて、そ
の原因を索ると大坂の新令が崇つたので二十四組の物品が取扱撤廃された
から、これまでの価格では今迄通りの利益が上らない。それで取扱ふ少額
の物品を従前の如く利益に割当てるから値段が高くなる。これが基となつ
て、江戸の相場は益々上るばかりであつた。斯様にして物価の高低は大坂
の地で定められるので、殊更にこの大飢饉で諸藩の廻米が著しく減じたの
であつた。
この年、江戸で米穀の不足に苦しんだので、大坂町奉行に命じて、この
地の廻米の三分の一を、きつと江戸に送るように命じたが、この命令は内々
に撤廃されてしまつた。それは矢部駿河守、戸塚備前守等の運動であつた。
ところが天保七年に幕府が大坂の町奉行に江戸廻米の命令を下すや、跡
部山城守等は与力内山彦次郎と相談の上、奸策を講じた。彦次郎は兵庫に
大資本家北風荘右衛門を訪ねて山城守の意思を伝へ、米を買上げるや直に
江戸に廻送した。
大坂の町まで五升や一斗の米を買ひに来る貧乏人をどし/\牢にぶち込
んで置きながら、自分達は民衆に対して愛と涙を抱いてゐると宣言した。
勿論、町奉行が民衆に誠意がないから、蔵屋敷の役人もそれがなかつた。
自覚してゐる民衆は町奉行を攻撃して、その不誠意を罵つたので、町奉
行は已むを得ず、貧乏人を救ふべく手段を講じたが、前の矢部、戸塚等に
比較すると大きな差があつた。この前には極くひどい貧乏人には三郷の囲
籾の中から、各戸に白米一升と銭百文、四歳以上は男女を問はず、一人に
就き白米一升宛を都合三千人に与へた。
また資本家等の喜捨としては平野屋五兵衛は貧乏人一人毎に白米一升を
配つた。鴻池屋善右衛門、加島屋久右衛門等二十五名は銭一万二千五十貫
文を出した。それを貧乏人の各戸に振りあてたので二百二十一文づつ渡つ
た。その残額に鴻池屋伊兵衛の外四名、及び資本家の巣窟たる淡路町二丁
目や、三丁目などの義捐金を加へて、三郷各町に一貫八百九十文づつを分
配した。近江屋権兵衛の外一名及び源右衛門の寄附金で同じく各町に四百
七十文づつ分配した。その次に再び鴻池屋、加島屋等四十九名、土佐堀一
丁目、及び外二町の寄附金二万九百貫五十文を、貧乏人の各戸に三百三十
八文づつ振り撒いた。その他、各町の各組合、また個人の寄附も少くはな
かつたが、七年には特に堂島の籾倉を開放して白米に仕上げ、一人五合限
り四十五文と云ふのを第一回とし、川崎の官廩を開放して一人に五合を制
限として四十二文で廉売した。その後は無代で施与したが、石数と人員は
不明である。銭一万五千百十貫文で、各戸一人みの者には二百文、各戸三
人住み以上の者には三百文を振り撒いた。
天満の東西の搗米屋から白米十七石五斗一升を出して、貧乏人に五合づ
つ与へた。翌八年の二月に大阪、兵庫、西宮の貧乏人へ玄米二千石の施与
があつた。
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