Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.4.25

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』

その8

丹 潔

(××叢書 第1編)文潮社 1922

◇禁転載◇

第二章 与力時代
 第二節 官吏の腐敗 (2)

管理人註
   

 或る日、平八郎は新右衛門に用事があるから、直に来てくれるやうに使 を馳せた。彼は承諾した。平八郎の邸へ来たものゝ、胸に一もつある彼は、 何かお叱りでも蒙ると思つて玄関先で躊躇してゐた。それを知つた家臣は、 その様子を平八郎に告げた。すると、彼は顔に微笑を洩らして、玄関に現 れた。 『弓削氏どうぞ、お入り下さい。』  その叮嚀な親しみある言葉に、新右衛門は面喰つた。『御免』と上ると、 案内によつて、広々とした奥座敷に通された。二人は向ひ合になつたまゝ 黙つてゐた。  軅て二三の家臣によつて、種々の馳走が運ばれた。平八郎が彼に盃をさ した。彼は恭々しく盃を押し戴いて返盃した。盃の数は重なつた。彼は四 角張つてゐるせいか、どうも酔が廻はらなかつた。彼は其の用向きが早く 聞きたかつた。 『御用と云ふのは。』と、彼は口をすべらした。 『いや、外でもないが、ちよつと御尋ねしたいことがある。』 『何で御座いますか。』と、彼は内股を強くつけて堅くなつた。 『貴殿は盗人をどう御考へになる。』 『悪い奴と思ひます。』 『さうか。強権を以て人を威脅したり、蹂躙したりすることを――』と、 平八郎は膝を進めた。 『最も悪い事で御座います。』と、頭を垂れて両掌を畳に突いた。 『若しそう云ふやうな奴が、あつたら貴殿はどうする。』  平八郎は彼の顔をきつと凝視した。彼は額に皺を寄せて平八郎を見上げ た。 『そんな奴がありましたら、叩き切つてしまひます。そして庶民の安心を はかりたう御座います。』 『きつとそれを行ふか。』と平八郎は大声を放して確かめた。 『やります。』と、両掌を膝に載せて、きつぱりと云つた。 『きつとか。』平八郎は念を押した。 『きつとで御座います。』彼は頭を静かに下げて太息をした。赤く染めら れた襟首の辺は、いくらか青褪めて来た。 『若しその奴が、拙者であつたら。』平八郎は掌で胸をぽんと打つた。 『その時は真ツ二つに。』と、膝近くにある大小に指を示した。 『いや、見事々々。』と、平八郎は半ば微笑しながら賞讃して、 『その御決心でなくては。』 『ハゝゝゝ。』  彼は天井を向いて声高らかに笑つた。二人の沈黙は続いた。その沈黙を 遮るべく平八郎は彼に盃をさした。飲み乾した彼は、肴を一口やつた。 『そんなことを貴殿に申すのは、失礼であるが、若し其奴が貴殿だつたら、 どういたす。』と、平八郎は肩を揺つてくす/\笑つた。 『切腹いたします。』 『きつと。』と、強く云つた平八郎は彼をぢろつと見た。 『きつとで御座います。男なるが故に。』彼は握拳を下腹につけて、腹を 掻き割く真似をして見せた。 『それでこそ。男の中の男。点名の弓削新右衛門殿だ。』  平八郎は双手を上げて賞めた。酔が一通り廻つたところへ、油を注かせ れたので有頂天になつた。 『切腹いたします。拙者も何々と云ふ肩書のある者で御座いますから。』 『万事は、その覚悟でやつて欲しい。』




幸田成友
『大塩平八郎』
その25














軅(やが)て


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