Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.1.21

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その4

田中貢太郎(1880-1941)

『大塩平八郎と佐倉宗五郎』
(英傑伝叢書10)子供の日本社  1916 所収

◇禁転載◇

二 火事の夜 管理人註
  

                                  文之助が養子になる間もなく、その年の五月、養父はふとした病気が原 因で、三十歳を一期としてこの世を去つたが、その悲しみの涙の未だ乾か ない翌年の九月、またもや養母と新しい別れをしなければならなかつた。    とこはる 従来は常春のやうであつた大塩一家も、それがために秋雨の空のやうな淋 しい家庭となつてしまつた。     年老つた養祖父母は、文之助が一層不憫でならなかつた。二人は人並外 れて粗暴短慮な文之助の行末を、無事安穏であれと思はない時はなかつた。 けれども三つ児の魂百までで、文之助の粗暴と負けじ魂とは、年と共に募 る一方であつた。  木枯の吹きすさぶ晩秋の夕暮のことであつた。文之助は例によつて近所                 ぎは の子供達を狩り集めて、天満橋の橋際でハツケヨイヤの掛け声も勇ましく すまふ 角力を取つてゐたが、さすがに餓鬼大将になるだけあつて、誰れと組んで も負けるやうなことはなかつた。               『さあ、誰れか向つて来い、何あんだ、もう誰れも来ないのか、君達も思 つたより弱いなあ。』                        さう云つて、文之助は得意満面になつて肩を揺つた。その時、俄に半鐘        あたり が鳴り出した。四辺が急にざわめき出した。ばたばたと火事場をさして往 く人人のわめき声を聞くと、出火は橋向ふの西の町であつた。ヂヤン、ヂ                   けたたま ヤン、ヂヤン。人の心を掻き乱すやうな消魂しい半鐘の音は、吠えるやう       こがらし に吹きすさぶ木枯と入り乱れて、刻刻と暮れて行く空は、物凄い火の粉の 海となつていつた。  今まで角力に余念のなかつた子供達は、その恐しさに心脅えて、わあ、 わあと泣きだした。それを見ると文之助は笑ひだした。 『何んだ、泣いたつてしやうがないぢやないか、大丈夫だよ、火事はぢき 消えるだらう、ほら、もう火の手が大分弱つて来た』                   はるか  文之助は橋の中央へ立ちはだかつて、遥に燃えしきる町を眺めてゐた。        あわただ ひづめ その時、そこへ慌しい蹄の音を響かせて来たのは、代官篠山十兵衛とその                       ちうげん 配下の者であつた。一行は提灯を持つた二三人の仲間を先頭にして、橋の 袂にかかつて来た。   『退け、退け、篠山様の御出馬だ、危いぞ、退け、退け、』    まんなか  橋の中央に立つて火事に身入つてゐた文之助には、仲間の大声も耳に入 らなかつた。仲間は怒つて、      『馬鹿、退かぬか、危いツ。』  と、頭から口汚く浴びせかけるとともに。そのまま文之助を横抱きにし  みちばた て路傍へ放り出し、さつさと駈けて往つた。文之助は口惜くて残念でたま らなかつた。彼は起きあげるなり。 『どうするか見てゐろ。』  と云ふかと思ふと、そのまま代官の跡を追つて往つた。そして代官の一 行に追ひつくや否や、刀を抜いて飛びだし、先頭に立つてゐる仲間の提灯 に斬りつけた。 『狼籍者ツ。』                    ひてう         くぐ  二三の者が騒ぎだした頃には、文之助は飛鳥の如く群衆の中を潜つて、 何処ともなく姿を消してゐた。これが文之助が九歳の時のことであつた。  この事件は誰が知るともなしに知れて、それが文之助の養祖父母の耳へ も入つた。養祖父はこれを聞くと、思はず嘆息した。 『これは到底わし等の力では駄目ぢや、当人が相当に成人して、成る程こ れは悪い性質だと、自覚する時代が来て、自ら顧み、自ら改めるより外に 路はない、しかし、それにしても、このままでゐたら、それこそ何を し で か 仕出来すか知れたものでない、これ以上何事も起らなければいいが。』  養祖父のこの言葉は決して一時の杞憂ではなかつた。その翌年になつて、 文之助はふとしたことから、同僚十四五人と口論を初め、遂に一刀を抜い            さいはひ て二三人に負傷さした。幸に負傷は大したものでなく、養祖父が亦必至と なつて運動したために、事は表向きにならずにすんだが、しかし、かうな                         うち ると養祖父も世間の手前があるので、平然と文之助を家に置くわけにはゆ かなくなつた。そこで、いろいろと相談をした結果、表向きは勘当と云ふ てい                       もと 体にして、文之助が最初養はれてゐた母の親戚の塩田喜左衛門の許へ預け、                               文之助が十三歳になるのを待つて、再び養子と云ふ形にして家へ伴れて来 た。その時から文之助は、名を平八郎と改めた。





石崎東国
『大塩平八郎伝』
その11

幸田成友
『大塩平八郎』
その10 
 


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