Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.1.22

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その5

田中貢太郎(1880-1941)

『大塩平八郎と佐倉宗五郎』
(英傑伝叢書10)子供の日本社  1916 所収

◇禁転載◇

三 文武の修業 管理人註
  

 平八郎が親戚の家に預けられたのは三年間で、時間としてもそれほど永                            をとな い間ではなかつたが、その間に粗暴過激な少年は、考へ深い成人となつて ゐた。  その翌年、即ち文化三年の初春、平八郎は東町奉行所詰与力見習として             あたか 出仕することになつた。時恰も、我国の辺境が漸く多事になつて来た時で ある。それ、この間はロシアの軍艦が蝦夷地へ現れて掠奪して行つたとか、    せんだつて やれ、先達は筑紫へ英国の軍艦が遣つて来たとか、それまた、米国の汽船 が姿を現したとか、次から次へと泰平に慣れた人人の心を掻き乱していつ た。さうなると、幕府では今更のやうにあはてだして、諸藩に命じて沿海 の防備に当らせた。  かうして頻発した非常の事件は、もはや我が日本国民をして桃源の夢を 貪らせては置かなかつたばかりか、この一少年、平八郎の若い血潮を湧き 立たせずには置かなかつた。 『よおし、偉くなるぞ、今に見て居れ、我国の現状を考へて見い、これか らは世の中がますますむづかしくなつて往くのだ、今にますます偉い人間 が必要になつて来る時代が来るぞ、さうだ、偉い人間が必要になつて来る             きつと のだ、俺を見てくれ、俺は屹度その一人になつて見せるのだ、そして、こ の俺の名をやがては世界中に輝かせてくれるぞ、さあ、修養しろ。』  平八郎は、そこで佐分利流の槍術指南、柴田勘兵衛の門へ入つた。そし                               なま て、武術修業の一方では篠崎応道に就いて漢籍を教はり、少しでも懶けて 来ると自分で自分の身を責めた。それでも気力が弱るやうなことでもある     まか と机を力任せに叩いた。 『駄目だ、駄目だ、そのなことでどうする、もつと強くなれ、もつと、も つと、偉い人間になるといふ決心を忘れたのか、さあ、もつと勉強しなけ ればならない、努めなければならない。』                        れうが  かうして修養をつんだ平八郎は、十八歳で同輩を凌駕して、武術学問、 誰れ一人その右に出る者がなくなつた。それがために翌年になつて、平八   ぢやうまち 郎は定町廻役にあげられた。その役柄は勿論取るに足らないものではあつ                         ゐ り たが、あくまでも責任観念の強い平八郎は、孔子が委吏となり、司職の吏 となつたやうに、役目を大事を勤めてゐた。  ところが、それから二年目、文化十年の十月、恩師であつた篠崎応道が 七十七歳を以てこの世を去つたので、それが一つの機会となつて、年来の 志望の一つであつた江戸遊学をしようと思ひだした。平八郎はそこでそれ を養祖父に話した。もう平八郎の器量を認めてゐる養祖父は、その申出に 一言の異存をはさむ筈がなかつた。 『いいとも、学才を磨いて来い、わし達のことは心配するな、だが、故郷        そむ に待つわし等に叛くやうなことをしてはならぬぞ、大塩家を忘れてはなら ぬぞ。』             からだ  そこで役目を持つてゐる体であるから、それぞれ手続きをして出発した。                              せきじゆ さうして江戸へ出た平八郎は、草鞋の紐を解く暇もなく、当代の碩儒林述 斎の門を叩いた。  平八郎の勉励は人人を驚かした。平八郎は江戸に留ること五年、文化十 五年、二十六歳になつた時、養祖父が病気になつた。平八郎は驚いて大阪              へ帰つて往つたが間もなく歿くなつたので、そこで家に留まつて養祖父 の後を継ぐことになつた。  その頃から平八郎の名声が高くなつた。従つて少しでも学問武芸を励ま ふとする若い人達は、平八郎の門を叩いて、その教へを受けやうとした。 しかし平八郎は、      うつは 『俺はその器でないから。』  と云つて断つたが、それが二人になり、三人になり、五人になり、十人                               む げ になつて、だんだんに多くの人が懇望するやうになつて見ると、無下に断 ることも出来ないやうになつた。そこで、平八郎は公務の余暇に諸生を教 授することになつた。それが有名な洗心洞学塾のはじめであつた。




石崎東国
『大塩平八郎伝』
その26

幸田成友
『大塩平八郎』
その10 





































篠崎三島
(しのざきさんとう
1737−1813)
名が応道


















委吏
孔子は20歳の
時に委吏という
穀物藏管理の役
人になった




石崎東国
『大塩平八郎伝』
その23

















































石崎東国
『大塩平八郎伝』
その27
 


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