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ひごろ
ある日養父母は良いことを思ひついた。それは日比信仰してゐる住吉明
神へ、文之助を連れて日参するといふことであつた。そして、養祖母はそ
つ
の日からそれを実行した。二人は毎日打ち伴れて住吉へ往つて、住吉明神
ぬか
の神前に額づいた。文之助も養祖母と並んで、神妙に小さな両手を合せて
ゐた。
『こんどこそは。』
みち
養祖母は神前にさがつての帰り途、いつも自信ありさうに呟いてゐたが、
その満願の二十一日の日になつても、文之助の性行は少しも変つてゐなか
つた。
で
『神様でもなほしてくださることが能きないのか。』
一家の者は吐息を漏らした。
ひざし
ところが、ある日のこと、養祖母が縁先で暖な陽光を浴びながら縫物を
してゐると、ひよつこりと庭木戸を開けて入つて来た者があつた。それは
出入の道具屋の甚兵衛爺さんであつた。
『へえ、御隠居さま、暫く御無沙汰いたしました。』
『これは甚兵衛か、暫く見えなかつたの。』
『どうも御無沙汰ばかりいたしまして、何んともはや申しわけがございま
せん。へい、今日は結構なお天気でございます、ちよつと御隠居さまに御
覧に入れたい物がございまして。』
『さうかえ、どんな物だえ。』
『実はこれでございますが。』
さう云つて甚兵衛が風呂敷包を解いて取り出したのは、真黒に汚れた古
書五六冊であつた。
『どれ、どれ、その書物か。』
養祖母が手に取つて見ると、それは大学、中庸、論語、孟子の四書の古
書であつた。
『おお、これは四書ぢや、これを何処から手に入れたのぢや。』
『さるお武家さまから買ひ取りました、へい。』
さ う
『左様か、それでは、これをわたしに譲つて下さらぬか。』
こちら
『へえ、へえ、有難うございます、実は此方様へお願ひしたいと思ひまし
て。』
いくら
甚兵衛はそこで幾何かの代金を受け取つて帰つて往つた。養祖母がこの
わ け
四書を買ひ取つたのには理由があつた。それはこれまで神仏にすがつて矯
正しようとした文之助の悪癖を、書物によつて矯正しようと思ひだしたが
ためであつた。二三日して、養祖母は文之助を膝元に呼んで、例の四書を
出して見せた。文之助はそれを無心に眺めてゐたが、やがて、
ば あ
『お祖母さま、どうぞ教へてくださりませ。』
と云つて、すぐに養祖母の前に書物を出した。
『さうか、教はりたいか。』
ひそか えみ
養祖母はさう云つて密に会心の笑を洩らした。そこで、養祖母はまづ大
学を取りあげて読んで聞かせた。文之助はヂツト耳を澄ませて聞き惚れた。
そとあそび
その日から読書が毎日の日課となつた文之助は、乱暴な外遊がやや少く
なつた。養祖母は喜んで云つた。
『これこそ、住吉明神のお蔭ぢや。』
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石崎東国
『大塩平八郎伝』
その14
幸田成友
『大塩平八郎』
その10
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