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平八郎は近藤重蔵と別れてから三年目、ちよつとした機会から頼山陽と
し
相識るやうになつた。それは文政六年、平八郎が三十一歳の時であつた。
いつせき
一夕、これも絶えず往来してゐる篠崎小竹から招待を受けた。そこで平八
郎は出席して見ると、いつも見馴れてゐる香川景樹、後藤松蔭、落合双石
か さんしすゐめいしよ
等の来客の中に、一人見知らない老女がゐた。その老女は彼の山紫水明処
ばいし
に自適する頼山陽の母の梅枝であることが解つた。梅枝は香川景樹の門人
で歌が上手であつた。ちやうどその時は、梅枝は京都から来たところであ
つた。
その日の席上、梅枝は初対面ではあつたが、平八郎が文武両道に秀でて
ほ
ゐるうへに、清廉潔白の良吏であると云ふことを讃めて、有合せの扇へ一
首書いて平八郎へ送つた。その歌は「うらおもて なければ人に あほが
れて ときに扇の 風ぞ涼しき」といふのであつた。平八郎も非常に喜ん
でそれを受け、自分も亦詩を賦してそれに贈つた。
それから間もなく、梅枝は京都へ帰つて行つたが、その時大塩から贈ら
と
れた詩を持つて往つて山陽に見せた。疾うから平八郎の名声を聞いて会ひ
たいと思つてゐた山陽は、それを見てますます会ひたくなり、篠崎小竹の
所へその意思を時時漏らして来た。そこで、小竹は二人を結ばすことにし
て、日を約束して、二人を天満川崎の平八郎の書斎で引き逢はせた。それ
は文政七年三月十二日、平八郎が三十二歳の時であつた。
それから二人の交友は深さを加へて往く一方であつた。平八郎の方には
い つ
公務があつて外出が出来ないので、何時も山陽の方から大阪へ出向いて来
た。山陽は非常に平八郎を崇拝してゐた。ある時などは四度も続けさまに
京都から遣つて来たことがあつたが、これには平八郎も感激して、全く親
身の兄弟も及ばぬほどに山陽に許してゐた。
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石崎東国
『大塩平八郎伝』
その34
幸田成友
『大塩平八郎』
その83
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