Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.1.26

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その9

田中貢太郎(1880-1941)

『大塩平八郎と佐倉宗五郎』
(英傑伝叢書10)子供の日本社  1916 所収

◇禁転載◇

五 頼山陽と交る (2) 管理人註
  

           その山陽が兵衛を訪ふた時のことであつた。山陽は平八郎の書斎の壁に      てうしへき   ろがん 掛けてある趙子璧の蘆雁之図をぢつと眺めてゐたが、やがて、平八郎に知 れないやうに吐息を漏らした。それを見て平八郎は、この前に来た時も、 山陽が同じやうな容子をしたのを思ひ出して、不審に思つた。 『どうかしたかね。』  平八郎が聞くと、山陽はいかにも間の悪さうに首を振つた。平八郎は山 陽が蘆雁之図を欲しがつてゐるといふことを知つた。彼はいきなりその軸     はづ を壁から外して、すらすらと巻いて山陽の前に差し出した。               ほんと 『これをあなたにあげやう、真箇は手離したくないが、あなたの気に入つ たやうだから』  山陽は欲しして欲しくてたまらないところであつたが、平八郎が愛蔵し てゐる物を貰ふこともできないので躊躇した。 『いや、わしは貰つたも同然だ、やつぱりいつまでもここへ掛けて置いて             い つ もらはふ、見たくなれば何時でもまた遣つて来るから。』  しかし、平八郎はどうしても聞かなかつた。 『いや、どうか持つてつてくれたまえ、こんな物でも、あなたのやうな男 に気に入られたのは愉快だ、わたしは今までにさんざん楽しんでゐる、も ういらない、持つて帰つてくれたまえ。』 『有難う、では、遠慮なく貰つて行かふか。』  山陽はいそいそとそれを携へて京都へ帰つて往つた。その山陽は文政十  ごろ 年比、ある日あはただしく平八郎の所へ来て、菅茶山翁からもらつてゐた 杖を忘れて無くしたから、与力の力で尋ねてくれと云つた。平八郎は下役 をやつて探さして、山陽の所へ送つてやつた。  天保元年九月になつて、山陽の日本外史が脱稿になつた。平八郎は人を                      かね やつて早く見せてもらひたいと云つた。山陽は予て写して置いた写本を使 ひの者に持たせてよこした。平八郎の喜びは非常なものであつた。  それから間もなく山陽が大塩家を訪れて来た時、平八郎は嬉しさのあま りにかう云つた。 『あの返礼には何をあげやう、欲しいものがあつたら云つてくれたまえ。』  すると、山陽は笑ひながら云つた。 『なに、何も返礼はいらないよ。』 『いや、さうぢやない、あれだけの苦心した物を貰つて、なんの返礼もし ないとあつては心苦しい。』 『しかし、あれは初めから一部贈るつもりで写して置いたから。まあ、こ んどはなんにも要らない。』 『いや、さうでない、是非何か一つ持つて行つてもらひたい。』  かうまで云はれて見ると、山陽も平八郎の性質は前から飲み込んでゐる から、 『さうか、それぢや何か一つ貰つて往かう、それぢやあなたがいつも差し            まもり てゐる刀をもらつて身の守にしやう。』  と云つた。すると、平八郎は腰にさしてゐる短刀をとつて、山陽の前に 差し出した。 『それでは、これを持つて往きたまへ。』  それは月山作の短刀であつた。山陽は翌翌年、即ち天保三年九月十三日、      たふ 肺を病んで斃れた。時に山陽は五十三、平八郎は四十歳であつた。山陽の 重患のことが伝はると、平八郎は昼夜兼行で山紫水明処へ駈けつけたが、 到着した時には山陽はもうこの世を去つてゐた。平八郎は泣きながら亡友 とむら を弔ふた。


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『大塩平八郎伝』
その34

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『大塩平八郎』
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