|
すると、暫くして一人の老僕が片手に燭台を持つて入つて来た。そこで、
平八郎はわざと落着いた声で老僕に訊ねた。
『御主人は何所かへ外出されたでせうか。』
『いえ、御在宅でござります。』
『では、何かおいそがしいことでも。』
『さあ、その辺のことは一向私は存じませぬ、しかし、もうそのうちお見
えになりませう。もう少少お待ちくださいませ。』
まんなか
さう云ふが早いか、老僕は燭台を部屋の中央に置いたまま、そこそこに
出て往つた。平八郎は燭台が来たからにはもう近藤が出て来るだらうと思
つて、また浮かしてゐた腰をおちつけた。しかし、それから彼れこれ二時
間ばかりも待つたが近藤はどうしても姿を見せなかつた。燭台の蝋燭はと
見れば、もう大半燃えて残りすくなになつてゐた。平八郎は近藤は人を屁
とも思はない気性だと云ふことを聞いてゐるから、最初のうちは我慢して
ゐたが、そんなにまでされると、もうどうにも腹の虫が納まらなくなつた。
こぶし
平八郎は思はず両の拳をぐつと握り締めた。
『無礼至極の奴だ。』
さう云つて部屋の中を見廻したところで、平床に飾つてある百目筒が見
こしらへ
えた。それは近藤の愛蔵の品らしく、製作と云ひ、磨きと云ひ、実によく
そば
手が行き届いてゐる。そして、その傍には弾薬まで飾つてあつた。それを
見ると平八郎はほくそゑみをした。彼はいきなり床の方へ往つてその鉄砲
を取りあげ、それに手早く弾薬を詰めて引金を引いた。百雷の一時に落ち
ひびき もうもう こ
かかつて来たやうな響が家の中を震動さした。焔硝は濛濛と部屋の中を罩
きせる
めた。と、その時さらりと襖を開けて、重蔵が右手に煙管を持ち、左手に
さ
煙草盆を提げて悠悠と入つて来た。
『見事、見事、まあ、蒲団をお敷きください。』
さう云つて重蔵はにつと笑つた。そして、互ひに初対面の挨拶をして、
さけさかな
それがすむと、手を鳴らして酒肴を持つて来さした。酒肴の用意が調ふと、
重蔵は傍にあつた蓋物を平八郎の前へ出して云つた。
【平八郎と重蔵の対面図 略】
『これは到来もので、大した珍味ではないが、まあ一つ。』
『これは、どうも。』
いんぎん すつぽん
平八郎は慇懃に云つて、その蓋を取つた。中には一匹の生きた鼈が蓋物
うち も が
の内をがりがりとやりながら、外へ出やうと摸掻いてゐるところであつた。
それを見ると、平八郎は笑つて、
『これは何よりの好物、早速戴きませう。』
したた すす
と、云ふが早いか、小柄を抜いて首を切り、たらたらと滴る生血を啜つ
た。
ふんけい
それ以来二人は刎頚の友となつた。その時重蔵は中年の四十九、平八郎
は僅に二十六歳の一青年であつた。そして文政四年三月、重蔵は勤方不相
ゆゑ
応の故を以つて小普請入りとなつたがために、二人は永久の別れをしなけ
ご
ればならなかつた。その重蔵は天保十二年六月十六日、五十九歳を一期と
をは
して、近江の大溝でさびしい一生を了つたのであつた。
|
石崎東国
『大塩平八郎伝』
その29
幸田成友
『大塩平八郎』
その85
伊藤痴遊
「大塩平八郎と
重蔵」
鬼雄外史
「大塩平八郎」
|