Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.6.28

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「大塩の乱関係論文集」目次


『綜合明治維新史 第1巻』(抄)

その10

田中惣五郎(1894〜1961)

千倉書房 1942

◇禁転載◇

  大塩の乱と治安力・武力(3)管理人註
   

  「一方今橋通りを東進せる大塩格之助の一隊は、路に天王寺屋五郎兵   衛及び平野屋五郎兵衛等の豪戸を爆撃し、進で今橋を渡て上町に出で、   東横堀を南進し、内平野町に於て米屋平右衛門、同長兵衛、両家を轟   壊し、夫より豊後町に出で和泉屋勘次郎を撃破し、次で大手筋に住友   甚五郎に火矢を投じて之を焼く、既にして孤軍深く入るに気付き、是   より大手筋を圧迫して、徐々に思案橋を指して西に下る。時に西南の   風は中船場の火場を煽揚し、猛炎早く全市を掩ふを見る。而して此時   未だ一人城兵の影を見ざるなり。而も一支隊を以て、城中に迫て敵を   求むるの尚ほ勢足らず、且つ孤軍長く駐るの危険なるを恐れ、即ち思   案橋より再び北に示威的運動を起し、帰て本隊に合せんとす。偶ま平   野橋より高麗橋方面に出でんとして、忽ち堀伊賀守の一隊に会ふ。」  富豪征伐としては一応の成功であらう。この朝からの騒ぎに対し、奉行 の出馬が午後四時すぎである。しかも密訴はすでに前夜になされて居るの である。堀伊賀守の一隊とは、西町奉行堀と、京橋口同心支配広瀬次郎左 衛門の率ゆる与力二人、同心三十人が各々十匁筒、三匁五分筒を持つた一 団なのであるが、大塩格之助の軍の白旗を見るや砲撃を命じたが、堀の馬 はこれに驚いて跳上り、堀は落馬したので、同心共は大将撃たれたりと見 て即時に散乱し、堀も御祓所の会所に入つて休息し、雪駄ばきの広瀬は京 橋口へ退き、同役馬場佐十郎にこの事を語つて、共々東役所の長屋前へ行 つて、茫然と立つて居る間に、格之助の軍は本隊と合して淡路町にいたつ たのである。  だが西町奉行の堀はまだしも動く勇気はあつたが、東の跡部は、その部 下に大塩門下のあることも懸念されて容易に動かず、大塩勢を捕へる代り に、寄せ来る道と思はれる天神橋を切落して防禦の態勢をとり、その切落 しすら、部下を用ひず杣人足に命じた。  当時の大阪城代土井大炊頭利位は、乱起るや、両町奉行、目付中川半左 衛門、犬塚太郎左衛門に暴徒の逮捕を命じ、打払、切捨苦しからずと命じ、 巳の中刻に、玉造口定番遠藤但馬守、山里丸加番土井能登守、中小屋加番 井伊右京亮、青屋口米津伊勢守、雁木坂加番小笠原信濃守、東大番頭菅沼 織部正、西大番頭北條遠江守等を召集して、玉造口定地、京橋口定番の与 力同心全部を召集し、四加番は何れも家臣を督し、東西大番頭は、組頭及 び番衆全部を召集し、各持場につかしめた。具足奉行上田五兵衛、鉄砲奉 行石渡彦太夫には具足、鉄砲、玉薬の配賦を命じ、自らは本丸を巡視した。  両奉行は鎮撫の自信なく、ひたすら鉄砲同心の援助を乞うたが、玉造口、 京橋口の定番は、城を守るのが任務であつて、部下を町奉行に貸すことは 不名誉であるとして拒み、城代の命によつて漸くその一部を貸与へたが、 既にのべた如く、奉行の落馬で四散する程度のものであつた。とはいへ大 塩勢もこの城中の武力に対しては脆く、城兵の出陣となるや、一たまりも なく武器のすべてを淡路町に抛棄して退却してしまつた。


石崎東国
『大塩平八郎伝』 
その118

天王寺屋五郎兵衛
は
天王寺屋五兵衛
平野屋五郎兵衛
は
平野屋五兵衛
が正しい




























































玉造口定
は
玉造口定
 


『綜合明治維新史 第1巻』(抄)目次/その9/その11

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