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天保八年二月十九日、此日晩景に東西両奉行の天満巡見を機として事を
掲ぐる予定で、前夜来同志会して謀議を終り、酒宴に士気を鼓舞して居た
が、同志吉見庄左衛門が裏切つて奉行所に密訴したため、十八日夜、東奉
行に詰めて居た同志瀬田済之助、小泉淵次郎を先づ捕へんととし、小泉は
斬られ、瀬田は囲を破つて乱髪洗足の儘洗心洞に馳せ入つて発覚のことを
報じたのは、十九日の払暁であつた。そこで夕景の予定を朝に変じ、午前
七時、急使を附近の党類に馳せて集め、門を閉ぢて、天照皇大神、湯武両
聖王、東照大権現と書したる旗二、五七の桐に二つ引の旗一、救民の
二字を書した四半一を庭前に建て、大砲、砲車を牽出し、庭中の溜池埋
立の為に、数日来邸内に宿泊して居た人夫、及び今暁新に来集した人夫、
合計七八十人を召し、大塩自ら挙兵の理由方略を示し、信賞必罰の軍令を
宣し、それ/゛\武器を与へ、若しくは重用として、長持葛籠其他の必
要品を担はせて、堂々出陣した。同志人夫合計して百人余。この人夫連の
示威と、かつて大塩の私財書籍を金に代へて賑恤した際に徳とした人々、
単なる乱を好む徒等おひ/\参加して、漸次その数を増して行つた。しか
し最大の集団となつた時でも、五百人前後であつたといはれる。しかも、
事の発する前に、平山助次郎、吉見九郎左衛門の密訴あり、竹上万太郎の
逸走あり、高弟宇津木矩之丞の諌死があつた。二十人そこ/\の同志がこ
の有り様である。彼はこの人数とこの武器で何をなし得たであらうか。
「中斎先生年譜」によれば、
「既に軍を分て高麗橋を進める先生の本隊は、路に三井七郎右衛門を
侵し、岩城屋某及び島屋八郎右衛門を轟撃し、恵比寿屋、竹屋等の富
商を爆撃して、東横堀町を南に平野町に進み、西に内田惣兵衛、平野
彦兵衛、同佐兵衛、茨原屋友次郎、米屋喜兵衛、炭屋彦五郎等の巨商
豪戸を連焼崩壊して、手に任せて金穀を道路に散じ、夫より堺筋に出
で淡路町に入り、茲に暫らく軍を駐めて上町方面の情報を待つ。」
これが大塩平八郎の軍の行動である。
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吉見庄左衛門
は
吉見九郎右衛門
が正しい
石崎東国
『大塩平八郎伝』
その118
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