Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.8.28

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 伝』 その118

石崎東国著(酉之允 〜1931)

大鐙閣 1920

◇禁転載◇


収録にあたって、適宜改行しています。
また、明らかに誤植と思われるものは訂正しています。

   天保八年丁酉先生四十五歳 (25)

城代土井大
炊頭本丸巡
視

城代土井大炊頭既ニ跡部城州ノ訴ヲ聞キ即チ之ニ援兵ヲ許ス時ニ四時、初テ大塩先生乱ヲ作スト聞テ城中殆ド震駭ノ状アリ、外ニハ形勢刻々重大ヲ報ズル急ナリ、

是ニ於テ土井大炊頭自ラ巡視ノ命ヲ伝ヘ、定番加番大番頭ノ将士ニ命ジテ各々其守備ニ就カシム、因テ俄ニ定番ハ玉造京橋両組全部ヲ召集シ加番ハ其家臣ヲ督シ、大番頭ハ配下ノ番衆一同ヲ召集シ、各々持場ノ警固ニ就ク、

即チ城代土井大炊頭利位、九時両大番頭ヲ嚮導トシ定番加番ヲ従ヘ本丸ヲ巡視ス、是ニ於テ大阪城守護ノ防備初テ成ル。

当時城代以下諸侯及ビ兵力左ノ如シ。

    城代土井大炊頭利位居城下総国古河八万石
    京橋口定番米倉丹後守昌寿
    与力三十騎同心百人
    在所武蔵国金沢一万二千石
    玉造口定番遠藤但馬守胤純
     同上
    在所近江国三上一万石
    大番頭東小屋菅沼織部正定志
     旗本百騎与力二十騎同心四十人
    在所三河国新城七千石
    大番頭西小屋北条遠江守氏喬
     同上
    居城河内国狭山一万石
    山里丸加番土井能登守利忠居城越前国大野一万石
    中小屋加番井伊右京亮直経居城越後国与板二万石
    青屋口加番米津伊勢守政懿在所出羽国長瀞一万一千石
    雁木阪加番小笠原信濃守長武在所播磨国安志一万石
    御目附中川半左衛門忠明高二千六百七十石
    犬塚太郎左衛門忠邦高七百石
義軍船場ニ
入ル
先生弔民義軍ヲ率ヰテ北船場ニ入ルヤ、三段ノ陣備ハ救民ノ旗ヲ先頭トシテ蜿蜒六七百人、旗鼓堂々北浜二丁目ヲ西ニ向フ、是レカノ檄文中ノ主要目的タル富豪退治ノ第一撃ヲ試ミントスルナリ。
    大阪の金持共、年来諸大名へ貸付候利得之金銀並扶持米を莫大に掠取、未曾有の有福に暮し、町人の身を以て大名の家老用人格等に取用られ、又は自己の田畑等を夥しく所持、何不足なく暮し此節の天罸天災を見ながら、畏も不致、餓死之貧人乞食をも敢て救はず、其身は膏梁之味とて結構の物を喰ひ、妾宅等へ入込み、或は揚屋茶屋へ大名之家来を誘引参り、高価の酒を湯水を飲も同様に致し、此難義の時節に絹服をまとひ候河原者を妓女と共に迎え、平生同様に遊び耽り候は何等の事哉。挙兵檄文ノ一節



北船場一帯
ノ焼打
斯ル富豪ノ巣窟ハ実ニ北船場ニ在リ、今橋高麗橋一帯富限長者ノ大厦高楼甍ヲ並ベテ全盛ヲ競フモノ塩軍ハ先ヅ之ヲ打懲シテ金穀ヲ窮民ニ分散セザルベカラズ、即チ北浜二丁目ヨリ西ニ突喚シテ鴻池三郎兵衛ヲ破壊シ、火矢ヲ放テ遂ニ之ヲ焼キ、北浜一丁目ニ島村市十郎ヲ蹂躙シテ金穀ヲ散ジ、進デ今橋二丁目ニ出テ鴻池善右衛門ニ迫リ先ヅ大炮ヲ一発シテ之ヲ威嚇シ、尚ホ狼狽去ラザルモノヲ諭シテ難ヲ避ケシメ、飽マデ金穀ヲ路ニ散シテ窮民ノ取ルニ任セ、後火矢ヲ放テ之ヲ爆発セシム、或ハ云フ軍ハ暫ク茲ニ餐ヲ命ジ軍餉ヲ伝テ後之ヲ焼撃シ去ルト、
義軍分レテ
二トナル
是ヨリ凡ソ附近鴻池一家 鴻池他次郎、正次郎、徳兵衛、庄兵衛、(青天霹靂ニ依ル) ヲ爆破シ尽シテ夫レヨリ軍ハ二手ニ分レ、本隊ハ先生自ラ之ヲ引率シテ高麗橋通ニ出テ東ニ、一隊ハ大塩格之助之ヲ引率シテ大井正一郎之ニ従ヒ今橋通リヲ東ニ、二手並行シテ東横堀ニ出テ格之助ノ一隊ハ直ニ今橋ヲ東ニ渡テ上町方面ヲ衝キ、先生ノ本隊ハ中船場ニ侵入ス、盖シ両軍ノ進路ニ就テハ文書伝説区々トシテ一定セズ、杉山三平ノ口書ニ依ルニ一手ハ今橋ヲ渡リ、一手ハ高麗橋ヲ渡リ二軍再ビ合ストセルモ伝説ニ徴シ爆撃ノ跡ニ見ルニ斯クノ如ク単純ナラズ、今各種ノ資料ヲ綜合シテ軍ノ進路ヲ見ルニ大略左ノ如キカ。 既ニ軍ヲ分テ高麗橋ヲ進メル先生ノ本隊ハ路ニ三井七郎右衛門ヲ屠リ、岩城屋某及ビ島屋八郎右衛門ヲ轟壊シ、恵比寿屋升屋等ノ富商ヲ爆撃シテ東横堀ヲ南ニ平野町ニ進ミ、西ニ内田惣兵衛、平野彦兵衛、同佐兵衛、茨原屋(茨木屋)万次郎、米屋喜兵衛、炭屋彦五郎等ノ巨商豪戸ヲ連焼崩壊シテ手ニ任セテ金穀ヲ道路ニ散シ、夫ヨリ堺筋ニ出テ淡路町ニ入リ、茲ニ暫ク軍ヲ駐メテ上町方面ノ情報ヲ待ツ。
義党上町ニ
入ル
一方今橋通リヲ東進セル大塩格之助ノ一隊ハ路ニ天王寺屋五郎兵衛及ビ平野五郎兵衛等ノ豪戸ヲ爆撃シ、進デ今橋ヲ渡テ上町ニ出テ、東横堀ヲ南進シ内平野町ニ於テ米屋平右衛門同長兵衛両家ヲ轟壊シ、夫ヨリ豊後町ニ出テ和泉屋勘次郎ヲ撃破シ、次テ大手筋ニ住友甚五郎ニ火矢ヲ投ジテ之ヲ焼ク、既ニシテ孤軍深ク入ルニ気付キ是ヨリ大手筋ヲ圧迫シテ徐々ニ思案橋ヲ指シテ西ニ下ル、時ニ西南ノ風ハ中船場ノ火勢ヲ煽揚シ猛炎早ク全市ヲ掩フヲ見ル、 而シテ此時未ダ一人城兵ノ影ヲ見ザルナリ、而モ一支隊ヲ以テ城中ニ迫テ敵ヲ求ムルノ尚ホ勢足ラズ、且ツ孤軍長ク駐ルノ危険ナルヲ恐レ、即チ思案橋ヨリ再ビ北ニ示威的運動ヲ起シ帰テ本隊ニ合セントス、偶々平野橋ヨリ高麗橋方面ニ出デントシテ忽チ堀伊賀守ノ一隊ニ会フ。

城州愈々恐
怖逡巡
按スルニ堀伊賀守及ビ京橋組ハ初メ共ニ役所警護ノ任ニアリ、山城守鎮撫ノ 任ヲ帯ブルモ逡巡躊躇容易ニ発セズ、城代是ニ於テ伊州ヲ召シ命ジテ共ニ出馬ヲ命ズ、即チ伊州先ヅ発スル也、是ヨリ先キ城州玉造組ノ援ヲ請フ、援兵至レバ宜シク出陣スベキナリ、既ニ阪本本多等ノ至レバ之ヲ要シテ大炮ヲ借ント請フ、然ラバ敵ヲ茲ニ引受テ一挙鏖殺ノ計アルカヲ思ハシム、既ニ防禦成ラントスル時、又窃ニ天神橋ヲ断テ塩軍ノ来路ヲ絶ツト云フ、此時城州身早ク甲冑ヲ被テ而シテ出陣ノ意ナク、既ニ大炮ヲ得テ而モ茲ニ禦グノ決意ナシ、只斯クノ如ク外ニハ塩軍ヲ恐レ、内ニハ援兵玉造組ノ内心ヲ疑ヒ、只一身ヲ庇シ一時ヲ苟モセントスルノミ、故ニ本多阪本等憤慨之ニ出馬ヲ勧ムル三回ニ及デ漸ク起タントス。
言甲斐なき
事共




御家にも拘
はり可申
    浪華騒擾記云 拙者共両人申合候は、昨年甲州一揆の節勤番は城中にのみ引篭り居、おめおめと城下を焼払はせ候段、是迄は嘲り居ながら、今実地に臨み候へば弥張屋敷内に引籠り、市中放火をめ居り候てはあまり言甲斐なき事と憤激いたし、又々山州前へ罷出出馬の事すゝめ候得共、山州余程臆し候様子にて、元気も無之に付申述候は、東照宮御社最早危く相見え申候、右御社の儀は平常御神体遷座の節さへ、御奉行衆御持前に相成居候処、かくの如き大変にてさへ、御出馬も無之御焼失を御見物被成候ては、乍憚御家にも拘はり可申旨申述候得ば、山州も其節始めて心を取直し候様子にて、然らば出馬可致との事に相成云々。


藤田東湖「浪華騒擾記事
商業資料「大塩平八郎挙兵の顛末」その3


石崎東国「大塩平八郎伝」目次・その2その2(年譜)
その117その119

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