Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.6.21

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「大塩の乱関係論文集」目次


『綜合明治維新史 第1巻』(抄)

その3

田中惣五郎(1894〜1961)

千倉書房 1942

◇禁転載◇

  大塩の乱(1)管理人註
   

 大塩の乱には三つの因子がある。一は陽明学者大塩平八郎の個性であり、 二は頽廃する幕府政治への批判であり、三は災厄相つゞく後に来つた米価 騰貴、米穀不足、これに処する当局の欺瞞手段への憤懣であるといへる。 陽明学者大塩が、天保八年にいかなる社会観を有し得たかは、当時の一般 学者の思想的レベルを知る上に一つの参考となりうる。更にこの災厄を取 扱ふ幕府権力の限界を知ることは、幕政の運命を卜するに足り、就中その 乱に処する軍事的無力に至つては、ペルリ渡来後の狼狽を十二分に予見し うるといへよう。  大塩平八郎は大阪天満の町与力であり、世襲にもひとしい役人であつた。 宋儒を学んであきたらず、王陽明を究めて始めて釈然とした。「僕の志遂 ひに誠意を以て的と為し、良知を致すを以て工と為すに在り焉。爾来前を 瞻、後を顧みず、直前勇往、只だ力を現在の事務に尽す而已矣。是を以て 君恩に報い、祖先に報ひ、而して古聖賢の報に報ゆ、敢て人に譲らざる也。」 その清廉と剛骨が、王陽明の学を得てさらにその度を増した。槍術、砲術 を学び、ともに奥儀を究めたといふ。  文政十年の邪教徒の逮捕、同十二年の姦吏豪商の結托して私曲を図つた のを処分し、その私するところの三千余金を窮民に頒布し、天保元年には、 町奉行の命を奉ぜざる破戒僧を処罰する等、数々の事件が大塩をして名を 為さしめたのであり、この一列の事件によつて、彼が富豪を抑へ、貧民を 救はんとしたと見るのは誤りであり、むしろ上部の人々の無法が、彼の廉 潔心を傷けたためにこれを抑へたのであつて、貧民といへども無法である 場合は、同一の所置をとつたのである。これは、天満市中の公儀御用金を 扱つた富豪の身代限りに当つて、極力これを庇護し、老中水野出羽守の裁 断に断乎反対したことによつても知られる。その理由は、先代が御用金を 出したのは、子孫の事を思ふからであり、今手詰りになつたからといつて、 これを身代限りにしては、今後大阪の豪富どもは御用金を引請けぬであら う。大阪は公辺の御金箱であるからといふにある。さらに特殊部落の人々 に恩恵をかけ、いざといふ時の役に立たせようと考へつゝも、その博奕を なす者に対しては、徹底的に懲戒を加へて居る。頼山陽が大塩を送る文に、 「古今海内勢三都に偏し、三都の市皆な尹有り、而して大阪最も劇にして、 且つ治め難しと称す為。蓋し地濶絶し、大府にして而して商賈の窟する所 となる。富豪廃居に、王侯其の鼻息を仰ぎ、以て憂喜を為すに至る。尹来 り治むる者、更迭常ならざる者、乃ち属吏子孫に襲いで故事を諳んず、掌 故の如し。而して尹之を仰いで成る。成るに賄を以てす。」といふ意味で は、富豪の悪を奸く必要があつたらうが、大塩の場合はむしろ、この山陽 の辞の、「属吏故事を諳んじて、尹之を仰ぐ」立場の吏であつたと見られ る。






















幸田成友
『大塩平八郎』
その174



古聖賢のに
は
古聖賢のに
の誤植か




































幸田成友
『大塩平八郎』
その173




諳(そら)んず


『綜合明治維新史 第1巻』(抄)目次/その2/その4

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