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辞職後の大塩は、陽明派の学者として、洗心洞において帷を垂れ、道を
説き、世を批判するに至つた。そして「朝は常に八ツに起きて天象を観、
門人を召して議論す。冬日と雖も戸を開いて坐す。門人皆堪へず、而も中
斎は依然として意と為さず。その気魄の人を圧する、門人敢て仰ぎ視ず。
その家にあるや、賓客の来ること虚日なく、又た自ら立ちて門人に武技を
教ふ。」といふ生活がはじまるのである。近藤重蔵のごとき、頼山陽、斎
藤拙堂の如き、客中の変り種であつたらう。
天保四年の暴風雨を因とした米価騰貴は、各処に暴動まで起して、大塩
の心を暗澹たらしめた。当時の西町奉行矢部定謙は、その子を洗心洞に托
しておく程に大塩を信頼した。其頃関東においては米一升二百五十文に上
つたのを、大阪では百五十文から二百文限りとした。これは矢部が幕府に
建言し、江戸廻米を緩くし、西国大名に大阪廻米を増加させ、堂島米穀市
場の投機を取締つたためであり、市中の窮民に対しては、難波、川崎の両
官倉を開き、島町、将棋島の籾倉を発し、之を低価に分配し、また市中の
豪商に諭して、二回まで金穀の醵出、救済を為さしめたためであつた。こ
の背後に大塩の進言があつたかどうかは別問題として、天保七年に彼が再
びこれを試みることを当局に提言したところを見ると、この策に賛したこ
とは勿論であり、またさうしたことを実現しうる大塩の立場が、跡部の如
き奸吏と烈しく対立する原因にもなるのであらう。もつとも彼と雖も、隠
退せる一与力の力の限度は自認し、「所謂要路の大官に無之候へば、十分
の存寄通り出来申さざるものに候」と満腔の経綸の施しがたきことを歎じ
て居る。つまり天保時代の頽廃と災害とが、成長せる大塩を刺激するにも
かゝはらず、四囲の事情は以前よりも却つて不利に展開したところに、大
塩の乱の直接原因がある。
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石崎東国
『大塩平八郎伝』
その49
徳富猪一郎
『近世日本国民史
文政天保時代』
その39
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