Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.6.22

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「大塩の乱関係論文集」目次


『綜合明治維新史 第1巻』(抄)

その4

田中惣五郎(1894〜1961)

千倉書房 1942

◇禁転載◇

  大塩の乱(2)管理人註
   

 辞職後の大塩は、陽明派の学者として、洗心洞において帷を垂れ、道を 説き、世を批判するに至つた。そして「朝は常に八ツに起きて天象を観、 門人を召して議論す。冬日と雖も戸を開いて坐す。門人皆堪へず、而も中 斎は依然として意と為さず。その気魄の人を圧する、門人敢て仰ぎ視ず。 その家にあるや、賓客の来ること虚日なく、又た自ら立ちて門人に武技を 教ふ。」といふ生活がはじまるのである。近藤重蔵のごとき、頼山陽、斎 藤拙堂の如き、客中の変り種であつたらう。  天保四年の暴風雨を因とした米価騰貴は、各処に暴動まで起して、大塩 の心を暗澹たらしめた。当時の西町奉行矢部定謙は、その子を洗心洞に托 しておく程に大塩を信頼した。其頃関東においては米一升二百五十文に上 つたのを、大阪では百五十文から二百文限りとした。これは矢部が幕府に 建言し、江戸廻米を緩くし、西国大名に大阪廻米を増加させ、堂島米穀市 場の投機を取締つたためであり、市中の窮民に対しては、難波、川崎の両 官倉を開き、島町、将棋島の籾倉を発し、之を低価に分配し、また市中の 豪商に諭して、二回まで金穀の醵出、救済を為さしめたためであつた。こ の背後に大塩の進言があつたかどうかは別問題として、天保七年に彼が再 びこれを試みることを当局に提言したところを見ると、この策に賛したこ とは勿論であり、またさうしたことを実現しうる大塩の立場が、跡部の如 き奸吏と烈しく対立する原因にもなるのであらう。もつとも彼と雖も、隠 退せる一与力の力の限度は自認し、「所謂要路の大官に無之候へば、十分 の存寄通り出来申さざるものに候」と満腔の経綸の施しがたきことを歎じ て居る。つまり天保時代の頽廃と災害とが、成長せる大塩を刺激するにも かゝはらず、四囲の事情は以前よりも却つて不利に展開したところに、大 塩の乱の直接原因がある。





石崎東国
『大塩平八郎伝』
その49



































徳富猪一郎
『近世日本国民史
文政天保時代』
その39
 


『綜合明治維新史 第1巻』(抄)目次/その3/その5

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