Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.6.26

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「大塩の乱関係論文集」目次


『綜合明治維新史 第1巻』(抄)

その8

田中惣五郎(1894〜1961)

千倉書房 1942

◇禁転載◇

  大塩の乱と治安力・武力(1)管理人註
   

 大塩の乱の一党は、決行前に裏切者を出し、いよ/\立つにいたつた者 は二十余人といはれて居るが、彼等が大砲方梅田源左衛門を失つた後、武 器を捨てゝ引揚の際、大塩と行をともににしたものは、一子格之助。瀬田 済之助。渡辺良左衛門、庄司義左衛門、白井孝右衛門、橋本忠兵衛、相岡 源右衛門、西村利三郎、茨田郡次、高橋九左衛門、杉山三平。それに瀬田 の若党周次、作兵衛の十四人であつた。松本麟太夫の口書によれば、「大 塩格之助先陣、平八郎中陣、後陣は瀬田済之助であり、大将分七十人余、 惣人数五百人余」とあるが、今井克復の実験談によれば、「本当の徒党は 僅か二十人余あまり」といひ、むしろこの方が正しいであらう。  武器其他は大阪市史によると、   「火薬砲弾の製造、大砲其他武器の準備は最も必要にして、又最も人   目を惹き易し。是より先き大塩格之助中島流砲術を玉造口定番組同心   藤重良左衛門亡父孫三郎に学び、良左衛門と相弟子たり。仍て砲術練   習に托し、九月良左衛門を招き、塾生川合八十次郎(郷左衛門男)吉   見英太郎(九郎右衛門男)等をして其門に入らしめ、明春を待ちて丁   打を行はんと声言し、瀬田済之助、小泉淵次郎、八十次郎、英太郎等   をして、火薬、棒火矢の製造に着手せしめ、製法に秘密ありと称し、   製造場に鎖鑰を施し、外人の出入を許さず。北木幡町大工作兵衛を邸   内に招き、棒火矢に使用すべき長さ六尺、直径二寸許の棒二十本、長   さ三尺のもの十本を作らしめ、更に之を各長さ二尺四五寸に断たしめ、   火薬の原料たる硫黄、硝石は十月以来庄司義左衛門に命じ、南本町二   丁目基兵衛より購入せしめたり。」  これは、白焔硝五十五斤、薩摩硫黄八斤半、棹一貫、灰五百目、鉛三貫 目、鵜目硫黄八斤、鷹目硫黄三斤、合薬五斤、松脂三斤、これらの代金銀 三百九十五匁といはれる。   「大砲は同志白井孝右衛門の伐採したる松材を取寄せて製作し、(堺   筋淡路町に遺棄したる口径四寸許なる木砲二門、及大塩邸内に在りし   破損せる一門は此時製作のものなるべし)、瀬田済之助に命じ、同組   与力由比彦之進、及堺桜町鉄砲鍛冶芝辻長左衛門所有の百目筒各一挺   を借入れしめ、両人より返却を求むるも言を左右に託して返さず。又   平八郎自ら高槻藩士柘植半兵衛に切望して、其所蔵せる百目筒を刀剣   画幅と交換せり。砲車三台(一台は幅二尺長さ三尺、二台は幅一尺八   寸、長さ四尺)は十二月に至り、九郎右衛門、郷左衛門二人、石材運   搬用として、天満今井町仁兵衛外二名に調製を命じ、成るに及びて大   塩方に送らしめ、旌旗、提灯、草鞋等は孝右衛門之が調達を掌りぬ。」  これを淡路町の衝突後、大塩勢の遺棄した武器に見ると、百目筒三挺、 車台、附巣口四寸許の木砲二挺、内一挺は車台付、長持二棹、具足櫃二荷、 火薬入革葛籠十余箇、鎗三四本、小筒三挺、太鼓一箇、旗二本といふのと 大体一致する。棒火矢が放火用として最も有効に使用されたものであらう。









岡
は
岡
が正しい

石崎東国
『大塩平八郎伝』 
その116

〔今井克復談話〕
その5




『大阪市史』
「大塩乱」
その3












































柘植兵衛
兵衛
が正しい


『綜合明治維新史 第1巻』(抄)目次/その7/その9

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