Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.1.2

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その1

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

第壱章 家斉将軍と其輔相
  一 将軍家斉晩年の政治

家斉中年 以後 水野忠成 文政以後 の頽蕩 家斉の特 色 部門政治 の極政 家斉太政 大臣とな る 仁孝天皇 の詔書


大正十五年四月十六日、大森山王草堂の晴窓に於て、書き始む。

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折角松平定信によりて振粛せられたる幕政も、将軍家斉の中年以後漸く 頽弛し来たつた。家斉は固より暗愚の主ではなかつたが、亦た決して其 の曾祖吉宗の如き、政治其物に熱中する政治家ではなかつた。彼の初政 は、松平定信によりて、殆んど一切を施為せられた。定信去りて後も、                  たゞかず 定信の推薦したる同僚松平信明、本多忠籌等在りて、守りて失ふなきを 努めた。然も家斉の中年に至りては、彼は寧ろ自から泰平に沈酔し、軟        やゝ 楽に耽溺して、動もすれば田沼時代に逆転せんとするの、傾向を生じ来 つた。 おも             たゞしげ 惟ふに当時政権を専らにした水野忠成は、田沼意次程の手腕も、経綸も        ねいかう 無つた。されど佞倖にして将軍に迎合するの術は、寧ろ田沼以上であつ たと云はねばならぬ。               きやうさい           たうでき   定信賢明英果、身を以て、匡済の任に当る、其能く諸弊政を蕩滌し   て、以て海内上下の耳目を一新する者、其の功徳の卓偉たる、古今   の希なる所也。……加之(しかのみならず)松平信明、本多忠籌等、                     まつりごと   画一遵行、軌度を誤らず、寛政、文化の政、秩叙粲然たる者、蓋亦   人民の大幸と謂ふべし。何ぞ図らん水野忠友出でて、西丸の老中と      ほうし  やゝきざ           あひつい   なり、豊侈の漸、稍萌し。本多忠籌、加納久通等相踵で解去る者、   或は其謂なきにあらざるのみ。忠友の子忠成に至ては、其の才幹人   に超え、之を飾るに巧言令色を以てす。松平信明卒して後、制抑人   なく、忠成独り制財の任にあたる。遂に善く人主の意を迎合して、   一世の大権を弄す。文政以後、殆んど別世の如し。是より後、上下                               ひとえ   相率て、賄賂公行し、小人の徒、私利是謀る者、相踵で起る。偏に   通貨の改鋳を以て、済窮の上策となす。紛々擾々、其悪劣を極むる   に至る。勢止むべからず。忠成独り之を以て忠とし、地を増し、賞   を受る者、遥かに他の賢長講老の上に出づ。同僚中一二之を憂ふる   者あるも、亦善く之を退くることあたはず。文政より天保の初に至   りては、天下の事殆んど憂患に堪へざるものあり。……そも\/徳                  てん   川氏の治、是に至りて二百年、文恬武嬉、太平の観を極むと雖も、   其実は衰頽、危乱の胚胎する所、皆此公五十余年の間に在り。〔徳   川十五代史〕 此論概して妥当だ。要するに家斉の特色と云ふ可きは、五十余人の子女 を持ち、之を諸親藩、外様、譜第の諸大名に分配となし、或は其の封土 の相続者となし、或は其の御守殿(夫人)とし。徳川氏の勢力を、その              くらい 方面に扶植したると。将軍の位に在る五十年の久しきに亙り、坐ながら         のぼ 太政大臣の極官にりたるのみと云ふも、差支あるまい。而して生前大 政太臣となりたるは、彼の外には只だ家康と秀忠のみ。然も家康は将軍           なんな 職を秀忠に譲り、死に垂んとして賜はりたるもの。秀忠は恐れ多くも後 水尾天皇の舅にして、明正天皇の外祖父なれば、是亦た其の理由がある。 然も彼亦た将軍職を家光に譲りたる後であつた。家光は左大臣、綱吉は 右大臣、吉宗亦た右大臣に止つた。然るに家斉は将軍在職中、太政大臣 に叙任せられた。   源氏足利氏以来、軍職に在りて、太政官を兼ぬる者は、独り公而已。   蓋し武門の天下を平治する、是に至りて其の盛を極むと云ふ。〔日   本外史〕 此の如く頼山陽が特筆したのも、自から深長なる意義がある。而して盛 の極は衰の始めであることは、言外に領取せらるゝ。 文政十年三月十八日家斉は太政大臣に昇任し、其子内大臣家慶は、従一 位に昇叙せられた。 当時仁孝天皇より賜はりたる詔書は、乃ち左の如し。   みことのり   詔りす。徳を施さざれば則ち勧善の道欠く焉。賞を致ざれば則ち報                                   功の典廃す矣。征夷大将軍源朝臣、武は四方を鎮め、文は万方を覃   む、久しく爪牙の職を守り、重く股肱の任を荷ふ。黎民鼓腹の楽み                                   有りて、蛮夷猾夏の患無し。朝家益す安く、海宇弥よ平かなり。曩                 いにしへ こもこ   きには宮室を新らたにし、規模古に復す。交も政典を修め、祭祀廃   を興す。其徳宏大、其功豊盛、已に武備の重職を極め、未だ文事の   尊官を加へず。今ま太政大臣に任じ、宣して左右近衛府生各一人、                 こゝ ひせき   近衛四人、随身兵仗を賜ふ焉。式に丕績を表はし、   あま                普ねく天下に告げ、朕が意を知ら俾む。主者施行せよ。

然も恐れ多い言ながら、事実は上記に反対し、黎民腹を鼓つの染み無く       か みだ して、蛮夷は夏を猾るの患生じつゝあつた。

   
 


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