Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.1.3

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「大塩の乱関係論文集」目次


『「近世日本国民史 文政天保時代』

その2

徳富猪一郎(1863-1957)著 明治書院 1935

◇禁転載◇

 二 松平信明(一)


松平定信
の後継者











信明老中
となる










信明の政
治





















文化元年
解職の理
由







信明侃愕
の言






久田長考
の譴

















信明老中
復任







信明の気
骨
















所信に忠

家斉の初政は、松平定信の政治であつたが、それを受け続ぎたるは、定 信の推薦して同僚としたる、松平信明であつた。少くとも彼が在職の際 は、将軍家斉も、余りに我儘に募らず、従つて定信の定めたる規法も、                            のぶひろ さまで壊廃するに至らなかつた。松平伊豆守信明は、伊豆守信礼の長子、 三河吉田の城主で、智慧伊豆と呼ばれたる、寛永より寛文にかけての賢 相松平信網の後だ。明和七年七月八歳にして相続し、安永六年三月、初 めて将軍に見え、同年十二月、従五位に叙し、代々の伊豆守を称した。 天明四年十月奏者番となり、同八年二月側用人に進んだ。此れは固より                     ぬき 定信の推薦による。而して同年四月、老中に擢んでられた。時に歳二十 六。三十一歳の老中首位定信の同僚として、大いに其職に適したことは、 云ふ迄もない。斯くて従四位となり、侍従に任じた。寛政五年七月、定 信が勇退以後、彼は其の同僚の重なる一人として、其の遺法を把持して 失ふこと無かつた。           やまひ 彼は文化元年十二月、疾を以て職を解れたが、同三年五月復職して、老                          中の上座を命ぜられ、十四年八月廿九日五十五歳にて逝いた。されば彼 が大政に参与する前後通じて二十八年に亙つた。而して彼は能く将軍の    はし 驕慢に趨らんとするを牽掣して、甚しきに至らしめなかつた。彼恒に曰 く、   凡そ政事は只だ何事も、おさへおさへて、惣じて事の出来ぬやう、   物の多くならぬやうにすべし。されど此押ゆるに労することなり。    せうが と彼は粛何たる定信に対して、曹参であつた。所謂る守つて失ふなく、 民以て寧一とは、彼の方針であつた。従て信明執政中は、天下は静謐で あつた。 彼が文化元年の末に職を解れたのは、疾の故と唱ふるも、それには別に 理由がある。当時将軍の生父一橋治済卿を、二の丸に移さんとしたるを、 彼が直諌した為めと云ふ説がある。当時二の丸を修繕し、やがて一橋卿 移住の風説あり。   二の丸へ渡しかけたる一橋 ふみはづしたら何と将軍。 此の落首を見ても、当時の模様が判知る。されば信明侃愕の言、必らず 将軍の耳に逆うたのたであらう。然も此れが為めに一橋卿も亦た、大い に其志を逞しくする訳には至らなかつた。是亦定信の遺法を、能く守つ たものと云はねばならぬ。 当時一橋卿の寵臣久田縫殿頭長考なるものがあつた。もと縫殿助と称し、 一橋の側用人であつたが、本丸の小納戸となり、やがて一橋の家老とな                           おもんばか つたが、信明は彼を大目付に転ぜしめた。此れは信明が深く慮る所あつ た為めだ。然るに縫殿頭は、其欲する所を逞しくする機会を失したから、 遂ひに信明を讒した。此れが解職の動機となつたと云ふ説がある。而し               たねちか て縫殿頭は、若年寄立花出雲守種周と計りて、画策する所あつたが、其  はかりごと の謀破れ、文化二年十二月に至り、それ\゛/処分せられた。即ち種周 は免官、隠居の上蟄居、縫殿頭は官を奪ひ、小普請、其子孫太郎は寄合 に貶せられた。而して其翌文化三年五月信明は、再び老中に任ぜられた。   五月四日、松平信明を召す。二十三日、松平信明、吉田より著府、   二十五日老中に復任、老中の上座たり。将軍之を召て親命委托する                         くらぶ   所あり。信明揮涙して退く。然れども恩遇、前に視れば、少しく衰   へたりと云ふ。〔徳川十五代史〕 或は曰く、始め将軍が、其の生父一橋治済を、二の丸に迎へんとして、 其事を信明に問ふや、信明黙然として、其旨を奉ぜず、之を問ふ再三に                       かたはら 及ぶ、尚ほ黙して答へず。側用人平岡美濃守、其傍に在り、御請をも 申し、将軍もやゝ気色を損じたれども。信明はこの御請は申上がたし。       のぼ 已に大納言にられてさへ、十分の栄寵であると答へた。此に於て将軍  ことば は詞なく、起て奥へ入らんとしたが。側衆高井飛騨守、其裾を控へ、御 挨拶\/と申したれば、将軍は已むを得ず、よく\/考慮す可しとの一 言を残して去つた。〔徳川太平記〕                みだ 何れにしても松平信明は、決して謾りに将軍に迎合して、其の驕恣を助                              長するが如き、倖臣ではなかつた。彼は少くとも自己の所信を枉げざる、 自信ある政治家だ。

   
 


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