Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.1.11

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その10

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    一〇 金銀貨幣の複雑

文政十一 年引替厳 令 幕府の融 通努力 草字二歩 判新鋳 文政十一 年倹約制 令 倹約令の 政略的意 義 南鐐上銀 を以て一 朱判吹立 二歩判を 全部草字 とす 天保三年 弐朱金通 用令 世上景気 追々良好

文政十一年九月には更らに左の如く令を発した。      三奉行え   一 古金銀之儀、追々新金銀に引替候得共、未相残分余程有之趣に   候。無程引替所相止候はゞ、不都合之儀も可有之候條、只今之内、   古金銀弐朱判とも精出し引替可申候。若貯置不引替もの相知候はゞ   古金銀取上急度可申付候間、御代官、領主、地頭にても、随分遂穿   鑿遠国渡海等にて引替方不都合之場所は、弥世話いたし、最寄引替   所え差出、引替させ候様可被致候。 此の如く屡ば新旧貨幣引替に付て、幕府が督励したるを見れば、如何に 新貨流通に付き、努力したことが思ひやらるゝ。同年十一月には更らに 又た左の如き令を発した。      三奉行え   一 弐歩判金之儀、世上通用不足之由相聞候間、此度吹増被仰付候。   然る処是迄之弐歩判は、金座極印之文字眞字に候塵、此度より小判、   弐歩判同様草字に相直し候筈候間、其旨相心得、是迄之弐歩判と無   差別取引いたし、通用差滞申間敷候。   一 近年引続御倹約被仰出候得ども、累年御入用も相増、御縁辺向   御慶事、其外御普請御修復等にて、不時之御用途相重り候に付、去   る申年(文政七年)より当子年(文政十二年)迄、厳敷御省略有之                      さしつゞき   候処、彼是不時之御物入莫大にて、御用途差湊、御勝手向御繰合不   被行届候。依之、来丑年(文政十二年)より巳年(天保四年)迄五   ケ年之間、猶又御倹約被仰出候間、諸事去る未年(文政六年)被仰   出候通可被相心得候。且右年限中は、勝手向難渋等之申立は勿論、   不依何事、無拠申立を以て、拝借相願候共、被及御沙汰間敷候間、   右に准じ、総て臨時御入用に拘り候諸願筋は被差控、面々にも弥倹   約相用候様可被致候。 此の倹約なるものは、幕府としては、従来の慣例である諸儀式上の出費 を減じ、若しくは大身、旗本等よりの拝借金を拒絶する口実を作る迄に して、将軍彼自身に於ては、未だ必らずしも自から倹約を実行したもの ではなかつた。而して大名の諸藩に於ける倹約令の如きは冥加米金を其 の士民より誅求するの、口実に過ぎなかつたことが多くの例であつた。 されば倹約令の発布は、必らずしも善政でもなく、又た善政の結果でも なかつた。否な悪政の結果、余儀なく倹約令を発し、而して其の倹約令 それ自身が、又た悪政であつたことは、決して稀有ではなかつた。 文政十二年六月には、更らに左の如く令を発した。   一 此度世上通用之ため、南鐐上銀を以、一朱之歩判吹立被仰付候   間、右歩列十六を以、金壱両之積。尤銀銭共、両替弐朱判同様之割   合に相心得、是迄之壱朱判に取交可致通用候。右南鐐壱朱銀之儀、   金と同様通用之ため、被仰付候間、無滞可致通用候。       大目付え   一 弐歩判金通用不足之由に付、去子年((文政十一年)より追々吹   増被仰付候。然る処右吹増之分は、先達て相触候通、小判壱分判同   様金座極印之文字草字に相直し、是迄之弐武分判取交通用いたし候   得共、後年に至り、極印両様にては、紛敷儀も可有之に付、今度不   残草字に相直し候筈候間、真字極印之弐歩判所持之ものは、江戸、   京、大坂、其外在々にて、当時吹直金引替御用勤居候もの共之内え   差出し、引替可申候。尤引替相済候迄は、是迄之通、真字之弐歩判   取交無滞可致通用事。   一 右引替金之儀、草字之弐歩判は勿論、小判、弐歩判、壱朱判等   を以、引替可遣候。焼弐歩判にても、真字之極印相分候分は、差出   次第、無代にて引替可遣候條、其旨相心得、早々引替候様可致事。 而して天保三年十月二日に至り、更らに弐朱金通用を令した。      御勘定奉行え   一 此度世上通用之ため、弐朱之歩判金吹立被仰付候間、右歩判八   つを以、金壱両之積。   尤銀銭とも両替、小判、弐歩判、壱歩判、壱朱判同様之割合に相心   得、是迄之弐朱金に取交、無滞可致通用候。   右之趣国々えも可触知者也。 此の如く金銀貨幣の種類が、益々複雑となつて来た。併し通貨の膨張と 与に、世上の景気が追々とついて来たことは、是亦た必然の結果であつ た。

   
 


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