文政十一
年引替厳
令
幕府の融
通努力
草字二歩
判新鋳
文政十一
年倹約制
令
倹約令の
政略的意
義
南鐐上銀
を以て一
朱判吹立
二歩判を
全部草字
とす
天保三年
弐朱金通
用令
世上景気
追々良好
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文政十一年九月には更らに左の如く令を発した。
三奉行え
一 古金銀之儀、追々新金銀に引替候得共、未相残分余程有之趣に
候。無程引替所相止候はゞ、不都合之儀も可有之候條、只今之内、
古金銀弐朱判とも精出し引替可申候。若貯置不引替もの相知候はゞ
古金銀取上急度可申付候間、御代官、領主、地頭にても、随分遂穿
鑿遠国渡海等にて引替方不都合之場所は、弥世話いたし、最寄引替
所え差出、引替させ候様可被致候。
此の如く屡ば新旧貨幣引替に付て、幕府が督励したるを見れば、如何に
新貨流通に付き、努力したことが思ひやらるゝ。同年十一月には更らに
又た左の如き令を発した。
三奉行え
一 弐歩判金之儀、世上通用不足之由相聞候間、此度吹増被仰付候。
然る処是迄之弐歩判は、金座極印之文字眞字に候塵、此度より小判、
弐歩判同様草字に相直し候筈候間、其旨相心得、是迄之弐歩判と無
差別取引いたし、通用差滞申間敷候。
一 近年引続御倹約被仰出候得ども、累年御入用も相増、御縁辺向
御慶事、其外御普請御修復等にて、不時之御用途相重り候に付、去
る申年(文政七年)より当子年(文政十二年)迄、厳敷御省略有之
さしつゞき
候処、彼是不時之御物入莫大にて、御用途差湊、御勝手向御繰合不
被行届候。依之、来丑年(文政十二年)より巳年(天保四年)迄五
ケ年之間、猶又御倹約被仰出候間、諸事去る未年(文政六年)被仰
出候通可被相心得候。且右年限中は、勝手向難渋等之申立は勿論、
不依何事、無拠申立を以て、拝借相願候共、被及御沙汰間敷候間、
右に准じ、総て臨時御入用に拘り候諸願筋は被差控、面々にも弥倹
約相用候様可被致候。
此の倹約なるものは、幕府としては、従来の慣例である諸儀式上の出費
を減じ、若しくは大身、旗本等よりの拝借金を拒絶する口実を作る迄に
して、将軍彼自身に於ては、未だ必らずしも自から倹約を実行したもの
ではなかつた。而して大名の諸藩に於ける倹約令の如きは冥加米金を其
の士民より誅求するの、口実に過ぎなかつたことが多くの例であつた。
されば倹約令の発布は、必らずしも善政でもなく、又た善政の結果でも
なかつた。否な悪政の結果、余儀なく倹約令を発し、而して其の倹約令
それ自身が、又た悪政であつたことは、決して稀有ではなかつた。
文政十二年六月には、更らに左の如く令を発した。
一 此度世上通用之ため、南鐐上銀を以、一朱之歩判吹立被仰付候
間、右歩列十六を以、金壱両之積。尤銀銭共、両替弐朱判同様之割
合に相心得、是迄之壱朱判に取交可致通用候。右南鐐壱朱銀之儀、
金と同様通用之ため、被仰付候間、無滞可致通用候。
大目付え
一 弐歩判金通用不足之由に付、去子年((文政十一年)より追々吹
増被仰付候。然る処右吹増之分は、先達て相触候通、小判壱分判同
様金座極印之文字草字に相直し、是迄之弐武分判取交通用いたし候
得共、後年に至り、極印両様にては、紛敷儀も可有之に付、今度不
残草字に相直し候筈候間、真字極印之弐歩判所持之ものは、江戸、
京、大坂、其外在々にて、当時吹直金引替御用勤居候もの共之内え
差出し、引替可申候。尤引替相済候迄は、是迄之通、真字之弐歩判
取交無滞可致通用事。
一 右引替金之儀、草字之弐歩判は勿論、小判、弐歩判、壱朱判等
を以、引替可遣候。焼弐歩判にても、真字之極印相分候分は、差出
次第、無代にて引替可遣候條、其旨相心得、早々引替候様可致事。
而して天保三年十月二日に至り、更らに弐朱金通用を令した。
御勘定奉行え
一 此度世上通用之ため、弐朱之歩判金吹立被仰付候間、右歩判八
つを以、金壱両之積。
尤銀銭とも両替、小判、弐歩判、壱歩判、壱朱判同様之割合に相心
得、是迄之弐朱金に取交、無滞可致通用候。
右之趣国々えも可触知者也。
此の如く金銀貨幣の種類が、益々複雑となつて来た。併し通貨の膨張と
与に、世上の景気が追々とついて来たことは、是亦た必然の結果であつ
た。
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