転審問模
様
左京弾糾
の賛成者
左京尋問
決定
左京罪状
発覚
友鵞引渡
拒絶の困
難
将軍の特
旨の力
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更らに川路聖謨の随筆を見れば、左の如く審問前後の模様が、分明に物
語られてゐる。
これに依て某(川路)篤と相調候処、風聞の如くならんには、左京
(仙石)は不忠にして、友鵞(神谷転)は忠に可有之、然れば名を
道之助にかりて、友鵞を極刑に処せんと企ること必せりと思ひし
まゝ、いづれ左京一同、奉行所にて弾糾のこと可然と存ぜしなり。
然るに種々の事情ありて、其説に同意されし人少く、町奉行並御勘
定奉行は、素より不承知に有之、兼而果断の中務大輔(脇坂安董)
殿さへも、最初は容易に其説を容れたまはざりしが(原註 其事情
の最たることを述れば、仙石左京の長男小太郎と云へるものゝ妻は、
御老中松平周防守殿の実弟松平主税の女なり。是を以て、仙石左京
と周防殿との間に、入込たる関係あらんとのことなれば、周防守殿
に対し憚る人甚多ければなり)、追て御同人も某が申條正理なりと
て、其の説を執政の面々へ申立られ候得共、町奉行、御勘定奉行の
衆中は、友鵞を仙石家へ引渡のこと、遮り候て、御決有之度と申立、
其旨老中之面々へ申上られたり。(原註 此頃松平周防守殿、御老
中御勝手掛(会計総裁)にて、世に云きりものにおはせしが、主と
して左京に荷担したまひし故、友鵞を町奉行に引渡のことを拒み候
もの少く、半ばには此拒説を主張するものは、殆ど某一人とはなり
しことありたり。余はそれに準ずることゝいふべし。尤下総守(間
部)ばかりは、初より変らず、其の説に同意せられたるなり。)
然る所其年(天保六年)八月に至り、特旨(将軍よりの特命をいふ)
を以て友鵞を寺社奉行井上河内守へ受取、吟味之事被仰出、それよ
り九月五日と申に、初て仙石左京を呼出し、尋問をなせり。
其日を始として、尚同月廿七日頃迄、日々脇坂中務大輔の邸に在て、
左京を尋問せしに、なか\/入込たる一件にて、同人不届の事共多
端に有之こと、発覚に及びたり。(原註 始は河内守、中務大輔の
懸なりしが、暫くして中務大輔の一手になれり)其重なるものを挙
れば、罪なき河野瀬兵衛を死刑に処し、同仙石家の家老荒木玄蕃、
仙石主計、酒匂清兵衛が、罪なきに禁獄せしこと等なり。尤右等の
所置は、悉く松平周防守殿の内聴を経候上にて、取計ひたる趣等、
一々白状せしめ、伺其外の悪事夥多有之候に付、日々引続き尋問札
弾をなすこと、凡そ日数三十日におよべり。其専左京がなせし好意
の本源までも尋究め、其実を明白に取調べたり。依て其趣を、奉行
より具に執政の衆中に申出られたり。〔川路聖謨之生涯〕
以上所記によりて、如何に普化僧友鵞事神谷転を、仙石家に引渡すを拒
むの困難であつたことが判知る。但だ神谷の身分が普化僧であつた為め
に、折角町奉行の手に差押へても、之を其の掛りたる寺社奉行に通告し
て、其の同意を得ねばならぬ必要あり。而して川路が力説尤も努めた為
めに、其の長官脇坂安董をして、之を仙石家に引渡さず、寺社奉行の手
にて、審判するの意見を、執政に具申するを得るに至らしめたのだ。
仙石左京が、当時の老中にして、勝手掛たる松平康任(周防守)に於け
る、猶ほ伊達騒動に於ける伊達宗勝が、当時の大老酒井忠清に於けるが
如き趣きがあつた。されば若し此際川路之を下に唱へ、脇坂之を上に承
けざるに於ては、左京をして、遂ひに其の悪運を成就せしめたるやも、
未だ知る可からず。されど将軍の特旨なかりせば、両人の努力も到底其
の甲斐あらざりしならむ。然も将軍家斉をして、斯く特旨を下さしむる
に至りたる所以は、果して誰の力であつた乎、若しくは将軍の自発であ
つた乎。何れにしても将軍の特旨が、此の事件の進行に就て、尤も有力
なる要素の一であつた。
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