Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.2.14

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「大塩の乱関係論文集」目次


『「近世日本国民史 文政天保時代』

その15

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    一五 脇坂と川路

転審問模 様 左京弾糾 の賛成者 左京尋問 決定 左京罪状 発覚 友鵞引渡 拒絶の困 難 将軍の特 旨の力

  更らに川路聖謨の随筆を見れば、左の如く審問前後の模様が、分明に物 語られてゐる。   これに依て某(川路)篤と相調候処、風聞の如くならんには、左京   (仙石)は不忠にして、友鵞(神谷転)は忠に可有之、然れば名を   道之助にかりて、友鵞を極刑に処せんと企ること必せりと思ひし   まゝ、いづれ左京一同、奉行所にて弾糾のこと可然と存ぜしなり。   然るに種々の事情ありて、其説に同意されし人少く、町奉行並御勘   定奉行は、素より不承知に有之、兼而果断の中務大輔(脇坂安董)   殿さへも、最初は容易に其説を容れたまはざりしが(原註 其事情   の最たることを述れば、仙石左京の長男小太郎と云へるものゝ妻は、   御老中松平周防守殿の実弟松平主税の女なり。是を以て、仙石左京   と周防殿との間に、入込たる関係あらんとのことなれば、周防守殿   に対し憚る人甚多ければなり)、追て御同人も某が申條正理なりと   て、其の説を執政の面々へ申立られ候得共、町奉行、御勘定奉行の   衆中は、友鵞を仙石家へ引渡のこと、遮り候て、御決有之度と申立、   其旨老中之面々へ申上られたり。(原註 此頃松平周防守殿、御老   中御勝手掛(会計総裁)にて、世に云きりものにおはせしが、主と   して左京に荷担したまひし故、友鵞を町奉行に引渡のことを拒み候   もの少く、半ばには此拒説を主張するものは、殆ど某一人とはなり   しことありたり。余はそれに準ずることゝいふべし。尤下総守(間   部)ばかりは、初より変らず、其の説に同意せられたるなり。)   然る所其年(天保六年)八月に至り、特旨(将軍よりの特命をいふ)   を以て友鵞を寺社奉行井上河内守へ受取、吟味之事被仰出、それよ   り九月五日と申に、初て仙石左京を呼出し、尋問をなせり。   其日を始として、尚同月廿七日頃迄、日々脇坂中務大輔の邸に在て、   左京を尋問せしに、なか\/入込たる一件にて、同人不届の事共多   端に有之こと、発覚に及びたり。(原註 始は河内守、中務大輔の   懸なりしが、暫くして中務大輔の一手になれり)其重なるものを挙   れば、罪なき河野瀬兵衛を死刑に処し、同仙石家の家老荒木玄蕃、   仙石主計、酒匂清兵衛が、罪なきに禁獄せしこと等なり。尤右等の   所置は、悉く松平周防守殿の内聴を経候上にて、取計ひたる趣等、   一々白状せしめ、伺其外の悪事夥多有之候に付、日々引続き尋問札   弾をなすこと、凡そ日数三十日におよべり。其専左京がなせし好意   の本源までも尋究め、其実を明白に取調べたり。依て其趣を、奉行   より具に執政の衆中に申出られたり。〔川路聖謨之生涯〕 以上所記によりて、如何に普化僧友鵞事神谷転を、仙石家に引渡すを拒 むの困難であつたことが判知る。但だ神谷の身分が普化僧であつた為め に、折角町奉行の手に差押へても、之を其の掛りたる寺社奉行に通告し て、其の同意を得ねばならぬ必要あり。而して川路が力説尤も努めた為 めに、其の長官脇坂安董をして、之を仙石家に引渡さず、寺社奉行の手 にて、審判するの意見を、執政に具申するを得るに至らしめたのだ。 仙石左京が、当時の老中にして、勝手掛たる松平康任(周防守)に於け る、猶ほ伊達騒動に於ける伊達宗勝が、当時の大老酒井忠清に於けるが 如き趣きがあつた。されば若し此際川路之を下に唱へ、脇坂之を上に承 けざるに於ては、左京をして、遂ひに其の悪運を成就せしめたるやも、 未だ知る可からず。されど将軍の特旨なかりせば、両人の努力も到底其 の甲斐あらざりしならむ。然も将軍家斉をして、斯く特旨を下さしむる に至りたる所以は、果して誰の力であつた乎、若しくは将軍の自発であ つた乎。何れにしても将軍の特旨が、此の事件の進行に就て、尤も有力 なる要素の一であつた。

   
 


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