Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.2.18

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「大塩の乱関係論文集」目次


『「近世日本国民史 文政天保時代』

その19

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    一九 仙石騒動の落著

老中松平 周防処分 周防嫡子 処分 町奉行筒 井政憲処 分 掛り判官 の賞賜 一月寺愛 御礼 聖謨昇任 例になき 昇任 希有の敏 速決定

審判の手は更らに進んで老中松平周防守に及んだ。即ち此の如くし て、一切及ぶ可き所に及び、達す可き所に達した。                    松平周防守   其方儀、仙石造之助家来河野瀬兵衛、ならびに同家来生駒主計   外三人、仕置当之儀、道之助家来共より、弟松平主税を以承合   候節、道之助家来差出候書面、事賓相違之儀有之、並片口之吟   味口を如何とも不心付、瀬兵衛其外のものども仕置当、夫々及   挨拶、右道之助養祖父播磨守致死去、忌中に相成候に付、右仕   置等申付候日間、猶又間合候節、他え洩す間敷、宝暦度評定所   一座之伺済書面写並書とり相添、内々主税へ差遣し候処、同人   より道之助家来え相達し候次第に至候段、重き御役をも相務候   節之儀、別而不埒被恩召候。依之隠居被仰付候、急度慎罷在べ   く候。                  周防守嫡子                     松平左近将監   父周防守事、勤役中不埒之儀有之候に付、隠居被仰付、急度慎   可罷在旨被仰出候。家督之儀無相違、其方え被下之、追て所替   被仰付候。    但し西丸下上屋敷被召上、中屋敷、下屋敷内え可有住居旨、    書付相渡候。   一 左近将監差松相伺に付、御目通り差控可罷在旨達之。 此の如く老中松平康任父子は所罰せられ、而して、町奉行筒井政憲 亦た左の宣告を受けた。                 町奉行 筒井伊賀守   其方儀、仙石道之助元家来にて出奔致し候神谷転事、虚無僧友   鵞儀、不届有之者に付、捕渡之儀追之助方より申越候間、組之   者え申付為召捕候。友鵞儀は、品々引合も有之、道之助方へは   相糺候心付も無之、一途に引渡候方に存込罷在候段、不行届事   に候。依之御目通り差控被仰付之。 おも 惟ふに筒井は只だ『一途に引渡候方に存込罷在候』と云ふだけの事 にて、事実友鵞を仙石家に引き渡したるにては之れなければ、其の 罪状は頗る軽く、されば将軍の目通り差控へに止つたものであらう。 而して此の事件の裁判長とも云ふ可き脇坂安董は、   仙石道之助家来共一件吟味取扱骨折に付、御聴之上、上意を以、   御持之御印籠被下之。 又た其の主任裁判官とも云ふ可かりし川路聖謨は、此の事件審理に よりて、其の功労と其才幹とを認められ、十一月廿八日、勘定吟味 役に栄進し、而して事件落著後十二月十八日、   仙石道之助家来共一件、吟味取扱、骨折候に付、拝領物被仰付、   自縮緬五疋、被下置之。 との賞賜を受け、其他それ\゛/の賞賜を受けたる吏僚九名ばかり あつた。然も此獄の斯く落著したるは、前にも説きし如く、上に将 軍家斉あり、下に脇坂と、川路とあつた為めと云はねばならぬ。 伺ほ友鵞召捕一件に付、屡ば奔走したる一月寺役僧愛は、十二月 十一日、寺社奉行へ左の手札をもて、廻礼した。                    しか   友鵞儀、願之通り御吟味被成下、定掟碇と相立、其上邪正分明   に相成、自諸士之忠烈を励候に至り、武門之助に相成候意味を   不失、一宗之面目不過之、偏に御仁徳之至り、殊更厚御慈悲之   御沙汰被成下、言語に不及所、深難有仕合に奉存候。右為御礼   参上仕候。 尚ほ川路当人の随筆に曰く、   十一月廿三日、友鵞一件に付、登城いたし候処、内々中務大輔   殿(脇坂)下総守殿(間部)被申聞候は、同日老中の面々より   して某(聖謨)へ不時御勘定吟味役に被仰付これあり候而も、   差支無之哉之段、松溜(城中の室名)に於て、尋問有之候間、   差支無之旨申上候故、定めて近日に被仰付之品も可有之旨を以   てせられたり。   某御勘定吟味役へ転ずるなど、内願せしことなきは不及申、既                  しんや   に両三日以前、某が友鵞一件にて晨夜労を尽が故、布衣の侍に   加へられんと、奉行の衆より申立あらむといはれしが、是すら   望外の至りと驚嘆せしことなり。夫れ友鵞一件に就ては、松平   周防守殿は、病と称して執政を辞し、尚書面を以御尋問の事あ   り。御勘定奉行曾我豊後守も、書面にて同様御尋のことありて   籠居し、御祐筆組頭田中龍之助は、二丸御留守居に、御祐筆神   原孫之丞は新御番に左貶せられ、評定所留役、金井伊太夫、豊   田藤之進の病と称して引籠るも、蓋し同事と承る。然るに友鵞   一件は、いづれも中務大輔と某して事を成せしよしの風説専ら   行はれ、衆人某を彼是と申居候折柄、布衣の御沙汰は、堅く辞   せんと思ひ込しに、困らざるも、例になき昇進たる、御勘定組   頭格、寺社奉行附調役より、御勘定吟味役に転ずるなど、夢に   も心附候義に候はず。依て御辞退之義を奉行衆迄申立しが、上   より厚き御選挙とのことに候へば、此上辞し可申様も無之、御   受申上候ことに至りぬ。〔川路聖謨之生涯〕 此の如くして、所謂る仙石騒動は、全く落著した。然も斯くばかり 徹底的に、而して且つ敏速に行はれたる所以は、実に当時に於ても、 希有の事と云はねばならぬ。

   
 


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