当時の落
書
周防転封
の諷詠
脇坂安董
の盛名
安董の官
歴
安董立身
の原因
家居三十
年後に再
起
安董の人
物
仙石家奴
斧七誠忠
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仙石騒動の裁決は、当時の人心に少からざる影響を与へた。例によ
りて無名氏の落首なども、少からず出で来つた。今ま試みに其の一
二を掲げんに、
田舎唄
お前は浜田の御奉行様(松平周防守)汐留(脇坂安董)に
もまれて、お色が真つ青さ。
又た当時市井に流行の、『かんかんのふ』唄に擬したるものに曰く、
段々の騒動は旧悪ですッ、左京にからへ、裁許急にやならむ
、一体代々幼々だ。縁者がお役で叱られた、けんもんとは、い
やはや\/。
又た百人一首の周防(松平康任)内侍に擬して、
恥の世と夢計りなる棚倉に 浜田を立ん名残りおしけれ。
此れは松平周防守が石州浜田から、奥州棚倉に転地せられたのを諷
したものだ。
こんどの御役と申さば、石州浜田(松平周防守)は御老中、豊
後(曾我)も、伊賀(筒井)も御役人、仙石様は百年め、左京
は(仙石)金を蒔き散らし、主税(松平)まかせにする所を、
上より龍野(脇坂)の舞下り、悪しき奴等をかいつかみ、汐留
の海へさらり\/と、御役上りましやふ。
亦た以て如何に当時の脇坂安董が盛名の世間に流転したるを知る可
しだ。
彼は天明二年に封を襲ぎ、寛政二年に奏者番となり、寺社奉行を兼
ねたが、文化年間故ありて職を罷め、而して天保六年再び寺社奉行
に任じ、翌七年二月には、西の丸の老中格となり、九月には老中に
進み、八年七月には、本城の老中となつたが、十二年二月には在職
の儘逝いた。
彼の家は元来外様であつたが、彼は年少より譜代家臣の列に入りて、
ことさ
奉職せんことを思ひ立ち、故らに将軍家斉の注意を惹く可く心掛け
た。乃ち時様に倣ひ、奴鬢を作り、衣服も特に鮮麗なるを著し、加
ふるに眉目秀麗であつたから、乍ち将軍の物色する所となり、格を
破りて寺社奉行に任じた。当時彼は二十歳台にして、年壮気鋭、大
いに僧侶の風儀を矯正した。而して日蓮宗延命院事件の如きは、事
或は大奥に連り、何人も容易に手を下し能はなかつたが、彼は敢て
と
憚る所なく、法を秉りて之を糺し、為めに各宗の僧侶をして、粛然
として自省、懲戒するに至らしめた。然るに意外にも事に座して、
官を辞し、家居する三十年、再び天保六年に出でゝ、遂ひに此の仙
石騒動の審判長となつた。此れは将軍家斉の特旨に出でたるもの、
彼が再び寺社奉行に任ぜらるゝや、落首あり、曰く、
てん
又出たと坊主びつくり貂の皮
と。貂の皮は、脇坂家の祖先安治以来の徽標であつた。然も此の再
起は、破戒の僧侶よりも、却つてより重大なる仙石騒動に及んだ。
或は特に此の事件を処理せしむ可く、将軍が彼を再起せしめたと云
ふ説〔栗本鋤雲、匏庵遺稿〕あれども、果して然るや、否やを詳に
しない。尚ほ栗本は、脇坂に就て、左の如く記してゐる。
予(栗本)が友、山口泉処、屡々其家(川路)に就て談話せし
に、川路氏は、常に淡州(脇坂)に推服して云ふ、淡州の如き
は、理を看る極て明にして、事を処する極て敏、前後寺社奉行
中に、絶て其比を見ず。初め仙石氏の獄を理するの日、曾て余
を閑室に招き云々述る所ありし末、贈るに最愛する所の匕首を
以てす。(川路翁殉国の日に用ふる所の剣、蓋し或は此匕首な
らん歟)其意蓋し憲法は、天下の治乱に関す、努力して猶ほ正
理を暢る能はざれば、或は用ゆる所あらんとするを示したるが
如し。淡州去る既に二十余年、其時の音容猶記して、此左衛門
尉(川路)が心にありと語れりと。
尚ほついでなれば、川路が、此の事件審理の際、斧七なる微賤の者
つか
が、陽に左京に事へ、其の奸計を探知し、仙石家の為めに、謀る所
ありたるを知り、川路がそれに感激したる事を記せんに。
川路斧七を詰問しけるとき、其情実を得、感賞の余、汝は白洲
に坐して、吟味を受け、我は階上に在て、汝を吟味すれども、
汝の沈勇、ゆめ\/我及ぶ所にあらずと、云ひし程なりと語れ
るゆゑ、(藤田東湖)拍手曰、友鷲去之、斧七為之奴、瀬兵衛
諌而死之。是を仙石家の三絶といへり。川路も誠に然りと云へ
り。〔東湖随筆〕
尚ほ川路其人に就ては、他の機合に於て、記す可きことが甚だ多い。
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